松沢呉一のビバノン・ライフ

下目黒の土地価格—高井としを著『わたしの「女工哀史」』のもやもや 28-(松沢呉一) -3,029文字-

としをの「作り話」—高井としを著『わたしの「女工哀史」』のもやもや 27」の続きです。

 

 

 

細井和喜蔵の言葉もとしをが創作した可能性あり

 

vivanon_sentence星製薬と星薬科大学に行った際に、西五反田から下目黒を改めてほっつき歩いて、細井和喜蔵が下目黒について「こんなブルジョアくさいところで暮らすのは飽きた」と言ったのも作り話であると私は確信しました。私がそう感じただけで、どこまでも断定はできないのですけど。

執筆環境を整えたいという気持ちはわかりますし、ちょうどとしをがいない時に、一人で新しい環境を求めた気持ちもわかりますが、買い取り金を手にして、下目黒に引っ越し、としをの仕事の事情も考えることなく、「こんなブルジョアくさいところで暮らすのは飽きた」としてまた亀戸に戻る行動は、いかに『女工哀史』でブルジョアジーという言葉を好んで使っていた細井和喜蔵であっても、赤貧イメージからするとそぐわないように思えてなりません。

この場合は二人しか知らないことなので、どこまでもそう言った可能性は残りますが、下目黒自体がブルジョア臭い場所であることを前提にして、そう言った可能性は限りなく低い。

このこと自体はどうでもいいと言えばどうでもいいのですが、これが作り話であったとしたら、「細井和喜蔵という人物を知る妻の証言」という意味でのこの本の価値はほとんどなくなります。

ただでさえ細井和喜蔵についての記述が少ないのに、そこに描かれたエピソードは信用ができない。少なくとも、他のものと照らし合わせないと使えない資料であり、確認がとりようがないことは信用しないのが賢明。

何ヶ月いたのかもわからないですが、短期間いただけの下目黒についての記憶はさほどなく、としをは、のちになって目黒が金のある人たちの住むところという情報をどこかから仕入れて、下目黒もそういう場所なのだと誤解し、和喜蔵がそんなことを言ったことにしたのだろうと思います。アインシュタインとパターンが同じです。

下目黒とまでは言わず、ただの目黒にしておけばばれやしなかったのに。いや、待てよ、当時目黒にブルジョア臭い場所なんてあったのか?

※目黒不動の近くにある鰻屋。ここは絵に描いたように、鰻を焼きながら団扇でパタパタやっていて、いいニオイがします。

 

 

としをが手にした印税で二百坪買えた下目黒

 

vivanon_sentence下目黒を短期間で引っ越した時に、「こんなブルジョアくさいところで暮らすのは飽きた」なんて本当に言ったのかどうかを検討するため、改めて大正時代の目黒について調べてみました。

目黒は関東大震災の前年である大正十一年に東京府荏原郡目黒町になっています。それまでは目黒村です。

フリッツ・ハーバーの講演から考えて、彼らが下目黒に引っ越したのは大正十三年の秋と思われます。町になって間もない。市外地域が続々と村から町へ、村から市になったように、関東大震災以降、急速に東京市の周辺部が発展するわけですけど、急速に発展したのはどちらかと言えば新宿以西の武蔵野方面の方が顕著だったでしょう。

目黒から品川にかけては、交通の便から、古くから街道として発達し、星製薬がそうであったように工場や倉庫が多く、商業地、住宅地として開発できるような土地がいくらでもあったわけではないですから、人口の増加率はおそらく武蔵野に比すとゆるいはず。

国会図書館を検索してみたら、『土地概評価. 荏原郡目黒村 大正9年8月調』(東京興信所)という冊子が見つかりました。これは便利。当時の土地評価額がわかります。

目黒でもっとも評価額が高いのは駅の近く。権之助坂から目黒川にかけてで、坪当たり四十五円から五十円、駒場や大橋あたりが三十円から四十円。祐天寺あたりで二十円。

下目黒は住所は出ているのですが、なぜか価格が出ていません。油面で十円から十五円なので、さらに安いことは間違いなさそう。十円以下のため、数字は出していないのかもしれない。十円を三千倍すると三万円。坪三万円以下で買えたのかあ。買っておけばよかった。

としをが手にした印税は二千円ですから、下目黒だったら二百坪以上買えたのです。それを男と放蕩した。

 

 

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