松沢呉一のビバノン・ライフ

女言葉と売防法—「セックスワーカーのためのアドボケーター養成講座」のご報告 2-(松沢呉一)-3,102文字-

東大の三四郎池で考えたこと—「セックスワーカーのためのアドボケーター養成講座」のご報告 1」の続きです。

 

 

 

資本主義と剰余価値率

 

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セックスワーカーのためのアドボケーター養成講座」は京都精華大学人文学部の山田創平准教授の講義からスタートでした。最初ですから、彼の話は8割くらい聴いてまして、全体を見渡す前提を見せてくれ、風通しがよくなるいい内容でした。

この中では、剰余価値率(搾取率とも言う)の話が面白くて、8割方聴いたところで三四郎池に行き、ノートを広げて性風俗における剰余価値率を計算してました。

「搾取がどうこう」と非難されがちな性風俗では剰余価値率が一般企業に比してムチャクチャ低い。つまりは「労働者の取り分が多く、あまり搾取されていない」ってことです。そのこと自体は『売る売らないはワタシが決める』でも簡単に触れていますが、数字をはっきりさせることが大事です。

客単価が高いため、経営側の取り分が少なくても利益が出るということでもあって、一律に剰余価値率の比較では論じきれないところもありそうですが、どういう計算をするにしても、特別に性風俗が非難されなければならない数字は出そうにない。むしろ、誉め称えられていい。

「搾取だ」と言えば批判した気になる人たちに対して、数字を提示して「あんたらはこの何倍も剰余価値率が高いほとんどの企業にどうして文句を言わないのか。この点で言えばもっとも優等生と言える性風俗をなぜ問題にするのか」と問うていく必要があります。難癖のための根拠なき言葉ですから、反論なんてできるはずがないでしょう。

この剰余価値の蓄積によって企業に資本が集中していく。この過程で、その都合に適した家庭が求められ、男女の役割分担が進み、性もその制度の中に組み込まれていく。今我々が伝統だと思い込んでいる家庭のありよう、性のありようは、一般庶民で言えば、せいぜい明治以降のものであり、さらには戦後完成したものでしかないのではないかという指摘は、「女言葉の一世紀」にもきれいにリンクする内容でした。

 

 

男女の役割分担と女言葉

 

vivanon_sentence女言葉の一世紀」は私の中では最初から全体像が見えているわけですが、一回一回は細かいところを詰めているので、読者は何を論じようとしているのかが見えにくいかもしれない。改めてまとめておきます。前にもざっくり書いていて、それを読んでいる人は読まんでもいいです。私の論をきれいに補足する最後のエピソードだけ読んでおいてちょ。

すでに「女言葉の一世紀」で具体例を多数挙げたように、明治中期あたりまで、階層によっては昭和に入っても、一般庶民に限れば、男と女の言葉はさほど変わりがありませんでした。女は「おれ」と自称したし、東京では「ない」が「ねえ」になる江戸訛りは女も同じ。

妻が夫に敬語を使う傾向は古くからあれども、それ以降に比すればその程度や頻度は低い。これは夫婦が同じところで同じように働いていたことと無関係ではないでしょう。

しかし、明治以降は勤め人が増えていきます。女工として働くのがいても、女は紡績など繊維関係の工場で働き、男は機械工になったりする。性別による分業です。

それでも夫婦共働きですが、企業が理想としたのは、夫は働きに出て、妻は労働力を送り出す場としての家庭を守るという分担です。妻が専業主婦になってくれれば、夫は簡単には仕事をやめられない。労働の再生産をサポートしつつ、足枷としての専業主婦の登場です。これは山の手が先行します。

※東大本郷キャンパス内の三四郎池。楽しそうだべ。ヘビおるで。文京区の公園で出会った東大の先生の情報によると、三四郎池以外にもいます。東大駒場キャンパスにもヘビがあちこちにいますし、東工大のひょうたん池にもいます。東京農大の小さな池にもいます。

これらのことから「国立大学にはもれなくヘビがいる」説を私は提唱しています。東京以外は知らん。東京でも未確認の国立大がありますが、たぶんどこかしらにいると思います。国立大学はキャンパスが広いってことなんですけどね。

 

 

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