松沢呉一のビバノン・ライフ

小出恵介を叩くことと読売新聞に通じるもの—セックスと言葉 予告編 2 -(松沢呉一) -2,316文字-

訂正。「読売新聞に報道される前にゲロする—私は出会い系バーに出入りしてました 1」に、読売新聞とはほとんど接点がないと書きましたが、古い自分の原稿を読んでいたら、『セックス・フォー・セール』が出た時に、書評が読売新聞に出たみたい。完全に忘れていて、思い出そうにも思い出せないですが、その節だけはお世話になりました。願わくば、記者やデスクはあの本を読んで、売防法自体が不当ではないかというところまで思い至って欲しかったものです。

18歳未満とのセックスに関する法の正確な理解—セックスと言葉 予告編 1」の続きです。

 

 

違法ではないことでも犯罪者扱いされる社会

 

vivanon_sentence前回見たように、小出恵介のケースでは、今のところは、淫行条例にはっきり反している事実はない。他にも法に触れるようなことをしているとの事実もない。

にもかかわらず、もはや犯罪者扱いであり、芸能活動は当面不可能です。

こうなってしまいがちです、この国では。ひとたび法ができると、それを正確に理解して法の適用を求めるのではなくて、そこに隣接する行為まですべてを社会が制裁する。制裁欲が作動されやすい社会なのです。

それを防ぐために、不当な要求だとしても金を求められたら金を出す。それを狙う人々が蠢く。

こういった事態を恐れて性行動自体を抑制していく。萎縮社会の完成です。

前回説明したように、淫行条例は年齢の線引きとその内容について大いに疑義のある法律です。婚姻年齢に合わせるのであれば16歳が適切であり、そうであるなら、小出恵介の相手のように17歳であればそもそも問題にさえならない。あとになって金を要求する余地もない。

「現に法律があるんだから、それを疑われるようなことをすべきではない」という主張する人たちは、ろくでなし子を批判するしかないのだし、共謀罪が現に制定されたのですから、それに抵触するような行為はすべきではないということになります。いいのか、それで?

キノコ狩りも行くべきではないと。私は今までナチュラルドラッグを求めて毒キノコ狩りをして、ベニテングダケを食ってゲロを吐いたことしかないですけど、生活のあらゆる場面で萎縮が始まりそうです。

Auguste Renoir「Reclining Nude」

 

 

公園から裸婦像が消える?

 

vivanon_sentence上にあるルノワールの絵のモデルはおそらく十代半ばでしょう。こういう少女の裸を扱う絵画、彫刻を手がける人は減っているのではなかろうか。児童ポルノの要件を満たすものではありえないのですが、難癖をつけてくるのが事実いますし、周りも「大丈夫?」なんて、いい人ぶって意見をしてくるので、自粛をしていく。

公園に男の裸体像があると、「どんなチンコかな」と思って確認をするのですが、チンコがもやもやと潰れている像があります。写真も撮ってますが、探すのが面倒。

どこからどういう力が働いてそうなっているのかわからないですが、あとから潰しているのではなくて、彫刻家のレベルでそうしているのだと思われます。チンコを切ったトランスを表現しているんだったら、それもまたありとして。

たしかにチンコは性器です。ろくでなし子のマンコが摘発されるのですから、チンコについても「ヤバいのではないか」と思ってしまう空気がチンコを消しているのだと思われます。まして公共空間の像です。刑法175条は法を超えてそこまで至る。

その点、裸婦像であればマンコは露出しないで済む。こうして公園には女の裸だけが溢れます。しかし、それさえも設置されないようになっていきそうです。

なんちゅう社会か。しかし、これは権力者だけがそうしているのではなく、空気がそうしているのであり、個々人がそうしているのです。小出恵介が法に触れたのかどうか、その法が妥当かどうかも考えず、叩く空気と同じものです。

「Marble torso of a boy」 この裸像のチンコはもげたのだと思われます。

 

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