山の手女言葉に駆逐される下町女言葉—女言葉の一世紀 29-(松沢呉一) -3,584文字-
「圓生の落語と女の「おれ」—女言葉の一世紀 28」の続きです。
※写真はうちにあるものから適当に配置しました。今まで使ったものが入っているかもしれないですが、気にしないように。
山の手と下町
ここまで「山の手」と「下町」という言葉を使ってきました。
そもそも山の手とはなんなのかって話ですが、曖昧な区分ではありつつ、ざっくり言えば東京の西側であり、高台です。古くは麹町だったり、四谷だったり、赤坂だったり、芝だったり。今で言えば山手線の内側、かつ屋敷町として発展した地域です。これが時代とともに西に移動していきます。対して下町は東側。商業地域や庶民の住居として発展した浅草、本所、深川など。
それぞれの狭い地域の中でも、山の手と下町の区分があったりしますし、ただの地理的線引きではなく、地位的、文化的差を示す言葉です。
下町言葉と山の手言葉の対比がよくわかるのが以前詳細に論じた泉鏡花著『恋女房』です。ここでは言葉遣いの点を改めて確認しておきます。
吉原で生まれ育った主人公のお柳は典型的下町言葉です。対して、山の手を代表するのは夫・浦松重太郎の妹である樫子です。重太郎は根岸の地主の息子です。根岸はおそらく武家屋敷と長屋との混在地だと思うので、典型的山の手ではなくて、たぶんその中間地として選択されたのだろうと思います。
泉鏡花は樫子を「大ハイカラ」と説明していて、女学校出です。言葉は典型的山の手女言葉。
「泉鏡花『恋女房』が見抜いた廃娼運動-『女工哀史』を読む 16(最終回)」に書いたように、樫子は矯風会初代会頭である矢島楫子になぞらえたものではないかと私は見ています。「かじこ」と「かしこ」。
小姑の嫁いびり
以下はお柳が植木屋と話しているのを樫子が聞いて、母親の悪口を言われたと思い込み、お柳を咎めるところ。
樫子 お姉さま、……何がお気に入らないか知りませんけど、出入りのあんな下等なものに、お婆さまの悪口を云って、酷くはない事?
お柳 ええ、(驚く。)何時私が、お婆さんの。
樫子 第一、其が不可(いけな)い事よ。……お婆様と言ふものよ。……お婆さんでは安ッぽいわ、些(ちっ)とは言葉づかひにお気をつけ遊ばせ。
お柳 はい、飛だ事を。貴女、何時私が悪口を申しましたえ。
樫子 現に今、然う言ひはしなくって? そりゃお姉様はお育ちがお育ちですから、恁(こ)うや(ママ)った家庭の事は何にも御存じはないでせう……ですからお婆様がご教育なさるんだわ。教へるんぢゃない事。……直ぐ一口でお覚えなさらないし、直きにおなほしなさらないから、年寄だから、気短で、そりゃ癇癪を起すでせうよ。貴女、それが気に入らないで、腹が立ったら面と向ってなり、ちゃんとした親類の前でご非難を遊ばせ。あんな無教養な下等動ぶつに陰口をきいて、卑怯だと思はない?
お柳 私、何うしたら可(よ)いでしゃう。思ひも掛けない、貴女、真個(ほんとう)に私が、そんな事を言ひましたか。
樫子 申しました…お婆様は疳性(かんしょう)だって言ったぢゃない? がみがみ疳を起こすって事だもの。貴女、それでも陰口を利かないと然う言い張る?……
お柳 まあ、(と優しく打微笑み、)飛んでもない、貴女……疳性と言ひましたのは、植木屋に、掃除なんかお気を着け……御隠居様は綺麗ずぎ(ママ)で居らっしゃるからと、然う言ったんでございます。
樫子 はあ、綺麗ずきって事なの、疳性とは。……噓でせう。
お柳 否、真個でございます。
樫子 一寸、それでは、どんな字をかくこと?
お柳 お恥かしう存じます。
樫子 疳性……(高慢に掌へ、指にて何か記しながら、)分からない、何しろ、地方語ね、俗語だわね。
そういう印象があっただけかもしれないですが、たしか樫子はお柳より年下のはず。それでも、ここでは兄と母の威光のもと、お柳をバカにしきった態度であり、小姑らしいいびりがこれ以降も続きます。
(残り 2182文字/全文: 3823文字)
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