松沢呉一のビバノン・ライフ

高群逸枝著『黒い女』から「守護神よ」—女言葉の一世紀 31-(松沢呉一) -2,942文字-

ノテの女言葉は方言を蔑む—女言葉の一世紀 30」の続きです。

ここから数回は高群逸枝の短編小説集『黒い女』(昭和五年)を取り上げます。とくに「女言葉の一世紀」の視点で面白かったのは、「田舎から来た女工達」でした。困ったのは図版です。「「女工哀史」を読む」でも図版に困り果て(あのシリーズは長かったですし)、あちこちで工場イメージの写真を撮ってきました。

茶摘み娘を筆頭に農業に関わる娘、海女のように漁業に関わる娘の絵葉書は多数ありますし、看護婦のように働く娘の絵葉書もあります。芸娼妓のものは言うに及ばず。でも、女工の絵葉書って記憶にない。少なくともうちにはない。工場自身が宣伝用に発行したものには実際の女工たちが出ているでしょうが、憧れる対象として創作されたもので、女工を描いたものってあるのかな。

茶摘み娘や海女は観光的な側面で名勝や旧跡と同じ意味で取り上げられやすい。芸娼妓はアイドルの側面です。絵葉書の時代には娼妓の地位は堕ちていたとは言え、花魁の格好や花魁道中の様子はやはり観光の側面がありましょうし、芸妓絵葉書は地元の民謡の歌詞が添えられていたりして、観光の側面からとらえられたものがあります。看護婦はエロ的な意味での憧れ、女子は自分がなりたいという意味での憧れの対象でしょう。女学生も同様。

しかし、女工はただの現金収入を得る手段であり、できることならやりたくない仕事。実態は貧しい農家の娘が多かったのですから、プラスの側面を見いだすことは難しい。働く本人としては、「百姓よりマシ」であったり、「町の空気を吸える」ということで。今の時代には想像できないくらいにプラスの側面を見いだしていたわけですが、だからといって憧れではない。その先にあるものには憧れても、「田舎を出られる」ということの解放感であり、それ自体に憧れていた娘はほとんどいないでしょう。まして、百姓以外が憧れる仕事ではありませんでした。

国会図書館を探せば少しは見つかりますが、鮮明な写真ではなかったりするので、以降、メトロポリタン美術館の写真をいっぱい使っております。今回は使ってないですが。

 

 

高群逸枝の『黒い女』を読む

 

vivanon_sentence都市と農村の関係を見るために、高群逸枝著『黒い女』(昭和五年)を読みました。国会図書館ではタイトルが「解放群書. 第42篇」になっていますが、これは解放社のシリーズ・タイトルであり、本のタイトルは「黒い女」。この黒は無政府主義の黒です。

まずは、「日本語の表記」シリーズにからめた話を。この本では、やや小さめの「ぇ」を使用しています。

左の図版の左端の「何ちゆう」の「ゆ」は小さくない。「え」だけが小さいのです。こういうこともたまにあります。級数の小さい文字をもってきたのかもしれないですが、外来語でもないのに、なんでそんなことをしたのかわからん。この話はこれで終わり。

民俗学者としての高群逸枝の著作である『日本婚姻史』は読んでますし、挫折したものもありますが、小説家としての高群逸枝が残したものとしては、今回初めて読みました。

黒い女』は短編集で、プロレタリア文学に属するものですが、手に汗握る資本家との闘争が出てくるわけではなく、アジるような内容でもない。物語としての起伏に乏しく、個々人の描き方も浅い。

そういう意味でのフィクションの面白味はあまりないのですが、そこに投影されている著者の視点にはさすがに唸るものがありました。まさにそれを見せようとした小説群かもしれず、そこを見据えると刺激的な内容です。とりわけ女の置かれた位置をわかりやすく見せてくれていて、フェミニズム小説と言ってもいいでしょう。

男と女の関係においても、女はただの意思なき被害者という見方をしておらず(作品によるのですが)、九十年近く前に、今時の糞フェミより遥かに透徹した視点を持っています。他の小説もこのあと読もうと思ってます。

 

 

「守護神よ」が描く「救済したがる人」

 

vivanon_sentence女言葉の一世紀」とは少しずれますが、先に「意思なき被害者ではない女」をはっきりと描いた作品を見ておきます。

守護神よ」は、醜婦、つまり売春婦の女と出会った「予」の困惑をテーマにしています。この小説では、一人称に「私」も使用されていますが、ほとんどは「予」になってます。

この本は国会図書館が全文公開してますし、「守護神よ」は短いですから、ぜひ読んで欲しいのですが、読むのが面倒な人たちのために簡単に説明しておきます(この「守護神よ」はどこかで論じられていたのを読んだかもしれない。ぼんやり記憶があるのです)。

この小説は「予」が守護神にすがりながら告白をするスタイルになっています。

 

最初彼女は私に醜婦論の一部を送り届けて呉れたのです。それによると、客観的価値と云ふものは有り得べからざるもので、猫も芋虫も人間も、自由平等だと云ふのです。つまり善悪、美醜、真偽、尊卑と云ふやうなものは、観念の牢獄、理知の奴隷—だと云ふのです。で、社会主義が富の分配に就いての、実際運動を開始したのと同時に、我々は、美の分配に就いての、実際運動を開始しなくてはならない、と云ふのです。

 

 

「予」は戸惑い、彼女の主張を否定し、彼女が売春をしたのは、「驚くべき性欲」か「貧乏」のためだと断定します。

それでも「予」は彼女に魅せられ、○○○○○○○○○○○○○、○○○○○○○○○、○○○○○○(伏字は原文通り)。セックスをしただけじゃなく、その上、なんかものすごいことをしたみたい。尿道プレイですかね。たぶん違いますね。

「予」は彼女が「醜婦」であったことを知った時には「侮蔑する気にも、憎悪する気にもなれない」と思っていたのに、この時は「侮蔑の目を以て彼女を見た」。

 

 

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