ブルマーかスカートか—女言葉の一世紀 54-(松沢呉一) -3,435文字-
「八ヶ岳登山もセーラー服で—女言葉の一世紀 53」の続きです。数字がいっぱい出てくるので、しばらくの間は算用数字と漢数字が併用になってます。気にしないでください。
札幌女学校の校史
女学校のことを調べているのは、良妻賢母を旨とする教育がどのように行われ、「新しい女」の登場はそのこととどう対立し、あるいは協調、融和していったのか、そこにおいて女言葉はどういう役割を果たしたのかを知るためなのですが、だんだん女学校自体、女学生自体が目的化してきてまして、女学校の資料を読みまくってます。いつもなら校史なんて読む気がしないですが、今の私にとって女学校の校史はもっとも面白い読物です。
本筋とあんまり関係がないのですが、お茶の水女学校とは違う学校の校史で、「どんな格好で運動していたか」のヒントになる写真を発見いたしました。札幌市立高等女学校(現・北海道札幌東高等学校)の『回顧三十年』(昭和十三年)です。
明治四十年、札幌区立女子職業学校として創立され、大正九年に札幌区立実科高等女学校になり、大正十一年に札幌区立高等女学校になり、この年、市制が施行され、翌年から札幌市立に。
以下は明治時代の遠足。
袴に日傘とはまた優雅な。
東京より早くセーラー服を標準服に
実科高等女学校時代、服装についての規則は大正九年に決められた「羽織を用ひざること」があったのみのよう。これも華美になるってことでしょう。冬場はおそらく毛織物のオーバーを上に着たのだと思います。
(残り 3086文字/全文: 3770文字)
この記事の続きは会員限定です。入会をご検討の方は「ウェブマガジンのご案内」をクリックして内容をご確認ください。
ユーザー登録と購読手続が完了するとお読みいただけます。
会員の方は、ログインしてください。
外部サービスアカウントでログイン
Twitterログイン機能終了のお知らせ
Facebookログイン機能終了のお知らせ