無知・無思慮を武器にしないために—スカーレットロード[8](最終回)- (松沢呉一) -2,851文字-
「割り切れないこと—スカーレットロード[7]」の続きです。
「障害者とセックスワーク」の難しさ
なんでここまで、「スカーレットロード」について書いているかというと、サラリと流されるのはまずいと思ったためです。あの映画は情緒に流れるところがあって、そこがよさですけど、そこでウルっと来てわかった気になってはいけないと自分を戒めました。
実のところ、私はセックスワークの問題を考える際に、「障害者とセックスワーク」というテーマを前面に打ち出すことに抵抗があります。その抵抗感がどこから生じるのかを自身でまとめておきたかったというのもあります。
セックスワーカーの客の大多数は障害者ではないのですから、そこに代表させてセックスワーカーの存在意義を語り切ることはできない。それ自体論ずるべきテーマであることは言うまでもないし、セッスクワークの無視できない側面です。そこに象徴されるものもあります。
しかし、健常者である私が「障害者にとって必要なのだ。だから、セックスワークは肯定されるべきなのだ」と主張するのはズルだろう、と20年くらい前にも書いたことがあります。
セックスワークのことを考えるためには、「障害者とセックスワーク」というテーマは難し過ぎます。「セックスワークをどう考えるのか」「障害者の性をどう考えるか」って、それぞれ難しい。その難しいテーマがダブルで同時に来ると、なぜか簡単に思えてしまうことになんか意味があるのだと思ってます。いい意味ではなく、よくない意味です。私らの中に、正しいのかどうかとは無関係に簡略化した答えを欲しがるところがあるのではなかろうか。
セックスワークの問題を語るのに、「中学生が援交をしていいのか」とぶつけてきて、全部を否定したがる人の逆ヴァージョンのような。「セックスワークの是非」に「18歳未満あるいは未成年の自己決定と責任能力」という条件をかぶせると議論が複雑になるのだから、まずはシンプルな条件で考えていくべきです。
SWASHもそこは危惧をしていて、「スカーレットロード」は当面解説つきでしか上映をしないとのことです。
あの国でできること、この国でできること
しかし、レイチェルさんにとっても、客にとっても、あれが彼らの現実なのですから、見えない部分を持ち出して批判するのもおかしい。オーストラリアの、あるいは世界のセックスワーカーと障害者の関係をとらえようとする映画ではないですから、観る側が「これはオーストラリアのあるセックスワーカーと客のひとつの現実である」と受け取って、その範囲で感動するなり、考えるなりすればいい。
いかに現実のある部分を切り取ったものでしかないとしても、こういう映画を観るたび、「これはいいな」「ここは羨ましいな」といちいち感じてしまい、「なにがどう日本と違うのだろう」と考え込むわけですが、そこに出てくるさまざまがオーストラリアの標準と考えていいのか、オーストラリアという国だから可能だったのか、あるいは純然たる個人の問題かということから精査していくべきかと思います。そういう端緒はあちこちにあるのだから、そこから始める。
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