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【オフ企画スタート!/第2回】髙橋延仁(FC東京U-18出身) Interview/02(2014/12/16)

オフ企画スタート!/第2回◆髙橋延仁(FC東京U-18出身) Interview/02

 

 

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昨日から始まったオフ企画第一弾、FC東京U-18出身、髙橋延仁選手の連載Interview第二回です。
無料公開の第一回を受けて無料範囲が前半部のみの有料記事となりますが、よろしければご一読ください。

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いまやタイで活躍する日本人プロサッカー選手のひとりとして名前を知られるようになった髙橋延仁。SAGAWA SHIGA FC、佐川急便SC、佐川急便東京SC、東京農業大学、FC東京U-18……とキャリアを遡って行くと、所属チームはジュニアユース年代に通っていた三菱養和にたどり着く。
なぜ三菱養和からFC東京U-18へと進んだのか。その世代に有力選手が結集しておもしろいサッカーをやっていたのはなぜか。その一端がかいま見える懐古からの第二回。

(01)からのつづき

――髙橋さんから見ても馬場憂太はそうとう巧かった?
「はい。(馬場)憂太とは小学校からずっといっしょなんですよ。もう、小学校のときから知っている。最初、あいつ(馬場憂太)は静学(静岡学園高校)に行くって言っていたんです。でも、ぼくが丸山(浩司)コーチにFC東京へ行くと言ったら(※丸山コーチは当時、三菱養和の指導者だった)、憂太もその気になって」

――そうそう、どうして三菱養和からFC東京へ行く気になったんですか?
「養和はトップ(チーム)がないじゃないですか。でもFC東京には(プロカテゴリーの)トップがある。上がれる仕組みがあるので……ぼくは上に上がれるところでやりたかったんですよ。なおかつ、ジュニアユースのときには東京ガスに負けて全国大会に行けなかったということもありました。東京都選抜には柴田(峡)さんがコーチとしていて、きちんと知り合ったのはそのときのことです。FC東京に行きたい意向を丸山コーチに伝えたら“じゃあ、来い”と柴田さんが言ってくれて。そうすると“馬場も呼んでこい”ということになり、ぼくが憂太に声をかける、と。もうひとり打診してみた子はいたんですけれども、彼は来なかったですね。そんな感じで、憂太とふたり、FC東京に入りました」

――話を戻すと、そのくらい実力は認められていたわけですね。
「そうですね。憂太は巧かったですよ、基礎ができていたので。左も右も蹴れましたし。養和のときはぼくがフォワードで憂太がうしろという関係でした。いつもいいスルーパスを出してくれて、ぼくがそれを決めて点を獲る、と。でも成長期で、中学と高校とではからだのつくりが変わってきますから、オレが右サイドとか真ん中をやるようになったりして、コンビネーションは少しずつ変わっていきました」

――高校生のとき、馬場憂太のストロングポイントが基礎技術の高さから来る巧さだったとして、髙橋さん自身のストロングはどんなところにあったんですか。
「ぼくは持久力と、ウラへの飛び出しですね。二列めから繰り返しウラに抜けてウラに抜けて、と」

――あのときのFC東京U-18のやり方はちょっと変わっていましたね。

(残り 2613文字/全文: 3899文字)

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