「ノンフィクションの筆圧」安田浩一ウェブマガジン

沖縄に関する「デマ」の真相 5〜 黄金に咲き誇るイペーの花の下、指笛は鳴り、闘いは続く


辺野古の海

 緋寒桜は春の風に散ってしまったが、沖縄はいま、イペーの花が各所で咲き誇っている。街路が、住宅街の小路が、鮮やかな黄金色に染まる。やはり沖縄は「色彩の島」だ。花も海も空も季節によって色を変える。ときに煌々と、ときに妖しく。
 だが、風景は常に輝いているとは限らない。何かの拍子に、目の前が単色に染め上げられるときもある。
那覇(沖縄県)の新都心を歩いていて、ふいに目に飛び込んできたのが、給水タンクの建つ小高い丘だった。おもろまち駅の近く、ロイネットホテルと東横インの間に挟まれた場所である。気になって調べてみると、そこはかつて、地元の人から「慶良間チージ」と呼ばれていた丘だった。そう、沖縄戦史においては「シュガーローフの戦闘」として知られる激戦地である。日本軍第32軍はこの丘を「安里52高地」、米軍は「シュガーローフ・ヒル」と名付けた。シュガーローフとは円錐形に固めた砂糖菓子のことで、すり鉢状の山を意味する軍隊の俗語でもある。
 1945年5月、1週間にわたって、日米両軍が戦った。迫撃砲が飛び交い、さらには互いが間近で手りゅう弾を投げ合う白兵戦が続いた。
 米兵が死んだ。日本兵が死んだ。地元の住民が死んだ。
 米軍が制圧するまで、日米間でシュガーヒルの争奪が11回も繰り返された。日米両軍が丘の頂上で1日に4回入れ替わることもあったという。記録によると、この戦闘で米軍は2千600人の死傷者を出した。日本軍も学徒隊・住民を含め多数の死傷者を出したが、その数は把握できていない。米軍は土地造成の際、米兵の遺体は回収したが、日本人の遺体は重機で埋めてしまったという。
 いま、丘の頂上には展望台がつくられ、沖縄戦の痕跡を確認することはできない。「シュガーローフの戦闘」について記された小さな碑が設置されているだけだ。
 展望台の上から新都心の街並みを見下ろした。商業施設やビルが連なる。正面には新都心のランドマークである大型免税店「ギャラリア」が見えた。
 ビルの谷間で、出し抜けに戦争の記憶が現れる。殺し合い、傷つき、倒れた数千人の骨が足元には埋まっている。そう考えた瞬間に、風景はモノクロームに染まった。
 沖縄には、そうした場所が限りなくある。
 その記憶を抱えた人が、いまなお生きている。

 沖縄戦で自決した海軍陸戦隊司令官の大田実少将は海軍次官宛に「県民に対し後世特別のご高配を」と、訣別の電文を打った。
 昨年6月、太田少将の二人の娘さんが名護市辺野古のキャンプ・シュワブゲート前を訪れ、新基地建設に反対する集会に参加した。
「平和のために頑張っている皆さんを見て、父も喜んでいると思う」
 集会ではそう発言した。
 戦後、「ご高配」どころか、沖縄は基地を一方的に押し付けられてきた。そしていま、どれだけ言葉を費やしても、選挙で民意を示しても、新たな基地建設が進んでいる。本当は悔しがっているかもしれない。「本土」は沖縄を利用し続けてきたのだから。
 だから──多くの人々が基地の門前で座りこむ。こぶしを上げる。抵抗を示す。
 今回の沖縄取材でも、私はあえて愚直な質問をぶつけた。なぜ、新基地建設に反対するのか、なぜ、この場所に通うのか。
 「テロリスト」「シルバー部隊」などと嘲笑された高齢の人々は口をそろえて訴えた。
「戦争の記憶が消えていないから」「二度とこの島を戦場にしたくないから」「戦争に加担したくないから」
 その素朴な思いを、なぜにヘラヘラと笑うことができるのか。
 私が『ニュース女子』に抱いた最大の嫌悪感は、これかもしれない。軽薄な笑い。卑屈な笑い。同番組は地元の真剣な思いを、デマを動員してまで嘲笑した。娯楽として消費した。
 お年寄りが座り込み、こぶしを突き上げる姿が、そんなに滑稽なのか。

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