赤鯱新報

【赤鯱探訪】松尾元太編①「僕は結局、その舞台に立つ準備ができていなかったんです」

大阪体育大学サッカー部 松尾元太監督
(2009~2011 名古屋グランパス所属)

3年間の名古屋グランパス在籍でJリーグでの出場はゼロ。ACLや天皇杯での出番はあったが、選手としての名古屋時代は本人も曰く「Jリーガーだった自覚がないんです」。しかし京都への移籍、引退から指導者の道を歩んだ松尾元太は、2018年、2019年と連続して関西学生リーグの優秀指導者賞に表彰されるなど、着々と実績を積み上げてきている。選手時代から饒舌にして明晰だった男だが、教える側に立った今はさらに思考し、試行する人物へと成長を遂げていた。とにかく、聞けば聞くほど彼の志向があふれ出てくる。今回の取材に余計な質問は必要なかった。指導者に、教員に、あるいはサッカーに留まらない松尾元太の言葉を、できるだけそのままにお伝えしたいと思う。

僕は結局、その舞台に立つ準備ができていなかったんです」

Q:まずはグランパスをはじめとする、プロサッカー選手としての日々からお聞きしていきたいと思います。
「僕は自分がプロサッカー選手だったということを、自分からは言わないんです。なぜかと言えばJ1でもJ2でもそうですが、名古屋で3年、京都で1年のキャリアの中で、Jリーグの試合には出場していないので。ですから僕にはJリーガーだったという自覚がないというか、Jリーグに出場してA契約を勝ち取って初めてプロサッカー選手かなと。名古屋での3年間での出場は3.5試合くらいだと思います。1年目のアジアチャンピオンズリーグの北京国安戦と、2年目の天皇杯のアルビレックス新潟戦、3年目のアジアチャンピオンズリーグのアルアイン戦、それと途中出場の試合があったぐらい。トップレベルの厳しさと、トップレベルの選手との練習でJ1、特に日本代表で戦っているような選手たちがいる中で、質の違いを感じました。

僕が大学4年の時、大阪体育大学は関西の2部リーグだったんですよ。そこからJ1のそんなチームに行って、衝撃の連続ですよね。大学では守備力にかなりの自信を持っていて、トーナメントで当たるような相手には全国でもそんなに負ける気はしていなかったんですが、プロに入った際にはその1対1の局面にあまりならない。それ以外の戦術理解であったり、周囲の判断の質が非常に高くて、自分の良さが出しきれなかった。それをプロ1年目の半年は模索しました。それがフィットしてきた中でケガをしてしまったので、名古屋での3年間は苦しかったことと、質の違いという印象ですね。当時はタマさん(玉田圭司)がいて、トゥさん(田中マルクス闘莉王)がいて、アレさん(三都主アレサンドロ)がいた。2010年を優勝したあのチームの質は非常に高かった。そういうメンバーと一緒に試合ができれば、また印象は変わったと思うんですが、その舞台に立つことすらできないという…。サッカーで稼ぐとか、J1のピッチに立つことはそんな簡単なことではない、と気づかせてもらいました。

僕がグランパスに入ったのは2009年で、田中隼磨さんと同じタイミングで入ったわけですけど、ライバルと言ったら語弊があると思いますがポジション的には同じで。ハユさんは僕のことをライバルと思ってはいなかったと思いますけど、僕は“田中隼磨”からポジションを奪わなければいけない立場でした。1年目はもがいて、ケガをしてプレーできなくなり、2年目はこの人を上回るためにまず量で上回ろうと取り組みました。でもやっぱり感じたのは質でした。シュート練習のキックの質からして、ミドルシュートなんて僕らは入る気がしなかったです。ペナルティエリア外から蹴って入る気なんてしないのに、タマさん、(藤本)淳吾さん、ケネディなんか簡単に決めてくる。練習では8割、9割くらいの確率で決めてくる。大学の時は自分が満足して思いきり蹴っておけばよかったけど、そうじゃないんだと気づかされました。

それと練習の量についてもすごく怒られた覚えがあって。居残りで練習をしたいと言うと、『でもお前はプロフェッショナルだろ?アマチュアじゃないんだから、決められた時間の中で質を追求しろ』と言われたんです。ロジェというフィジカルコーチ、ボスコにもよく怒られました。練習のない日に練習場へ行って走っていたのを見つかって、そうじゃないよね、と。そこで振り返って思うのは、結局はその舞台に立つ準備ができていなかった選手だったんだなと。とにかくもがいていました」

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