赤鯱新報

【赤鯱探訪】増川隆洋編①「データは93kg。でもベスト体重は95kgでした」

株式会社grow for kids代表取締役
増川隆洋
(2005~2013 名古屋グランパス所属)

今年の2月17日、実に懐かしい顔にオンラインながらお目にかかることができた。増川隆洋。言わずもがなの2010年優勝メンバーにしてその年のJリーグベストイレブンは、191cm、“93kg”という日本人離れした巨漢DFとして名古屋で一時代を築いた。プロ入りまではまさに叩き上げ、プロになっても生き残るために数々のコンバートを受け入れてきた努力の人は、17年間のプロ生活に自分で幕を引き、今は福岡県でセカンドキャリアを歩んでいる。自身も3人の子どもを持つ良き父親である増川が選んだ次の道は、児童発達支援事業だ。「わからないことだらけですよ」と快活に笑う姿は現役時代そのまま。クラブ史に名を残す名選手の一人に、これまでのこと、これからのこと、いろいろと伺ってきた。

赤鯱探訪・増川隆洋編①「データは93kg。でもベスト体重は95kgでした」

Q:引退会見以来ですね。じっくり話すのは久しぶりです。まず最初の質問は名古屋を後にしてからのキャリアについてです。

「基本、名古屋にいた時は出るつもりはなかったというか、やりきるつもりでやっていたので。自分が名古屋を出るということを想像していなかったんですよね。だからどうなるのかなあ、というところと、神戸に移籍させてもらったことで、名古屋とは違う仲間であったり、チームスタッフであったり、周りの友人とかも変わってくるので。そういうところでまた新しいコミュニティというか、いろいろなものに出会えたことによって、そういうのも楽しいんだなと。そう思えたのが大きかった気がしますね。名古屋にいれば決まった感じのつながりが多かったですけど、それが違う地域に行くことによってまた輪が広がったのは僕にとってもプラスでしたし、家族にとっても良かったかなと思いますね」

Q:神戸は増川さんの地元に近いということもありましたよね。

「そうですね、それもありますね。親が一番喜んだんじゃないですかね(笑)」

Q:名古屋もビッグクラブと呼ばれることが多いですが、神戸も今やそう呼ばれるクラブです。同じ規模の大きなクラブでも違いはやはりありましたか。

「でも僕がいた頃の神戸は今ほどすごく、結構お金は使ってる感じはしましたけど、今ならすごいビッグネームが揃っているので。外国籍で良い選手はたくさんいましたし、若手も結構粒揃いだったので、良くなっていこうとする途中の段階だったのかなと思いますけどね」

Q:その後は札幌に行きました。引退会見の様子では、札幌でも良い関係性を築いていたのが想像できます。

「そうですね。札幌ではJ1昇格も達成できたので、すごく良い時期をチームとしても過ごせたと思うので。周りの人ともすごく仲良くやれていたところがありましたね」

Q:神戸も札幌もすごく良い街です。

「そう、僕のキャリアを見ると、だいたい良い都市というか、大都市のチームに行ってるんですよね。そういうところでは過ごしやすいところもありましたし、どの街行っても楽しかったし、恵まれていましたね」

Q:京都は少しキャリア的には苦しんだ期間でもありましたか。

「ああ、そうですね。キャリア的には晩年と言えば晩年で、ケガも多かったですし、チームとしてもなかなかうまくいかないところがあったので。あまり明確に、京都のために何かができたかなというのは、そんなに貢献できたという思いはありませんね。迷惑をかけたところが多かったかなという気はしています」

Q:しかし選手、スタッフは名古屋で戦った人たちが多かったです。

「そうですね(笑)。最初に行った時も知ってる顔が多くて、トゥ(田中マルクス闘莉王)もイジってくれたりして。ビツ(石櫃洋祐)もいて、イジってくれて。懐かしい感じもあって、やりやすいところもありましたね。里帰りというか(笑)、場所は全然違うんですけど、馴染みの仲間がいて、そういう意味ではすごく溶け込みやすかったし、輪に入りやすかったですね」

Q:名古屋で良い時期を過ごされて、その後はチームを渡り歩いた。この流れの中には浮き沈みもけっこうあったのでしょうか。

「自分のキャリアというか、自分のチームに対する貢献度で言えば波はあったのかなと思います。もちろん名古屋にいた時にもそれはあったと思いますけど、自分がイメージしていたものとは違うところもあったし、年齢もあってケガも多くなったりもして、けっこうそこで迷惑をかけることも増えていったので。そういう波はあったのかなというところですね」

Q:引退会見でもおっしゃっていましたが、そこから2020年は移籍先を探しながら過ごされました。この1年間はどんなものだったのでしょうか。

「そうですね、実際、京都を出る時点で1年間まったくプレーできていないと。ケガ続きだったということもあって、なかなかフィジカル的には難しいところも出てきたのかなというのは認識としてもあったんですけど。そういう、“引退する”という選択肢も持ちつつ、でも最後のシーズンに1試合も出ずに引退していいのか、ということを家族からは言われたりもして。そういうことがあって、自分としてもけっこう迷ったところはあったんです。とりあえず僕としては需要がなくなれば終わりだと思っていたので、常に。その需要がないのだったら辞めようという感じで、話があれば聞こうというスタンスで、最初は待っていましたね」

Q:何が何でも現役、という執着があったわけではなかったのですか。

「そうですね。そこをやりたい気持ちはもちろんありますし、自分としては1年間コンディションを整えてしっかりやれるかどうかも未知数なところはあって。前のシーズンが酷くて、ケガして練習戻って、ケガして練習戻って、の繰り返しだったので。そういうところで自信が持てていない部分があったのは確かですし、やりたい気持ちだけでは無理なんだろうな、と途中で気づいたところはあったと思います」

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