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テーブス海「バスケットを愛するようになった原点」【インタビュー・無料記事】

 

レベルの高いところでバスケがしたい

テーブス選手は、東洋大附属京北高校の1年生の時からスタメンで出るなど活躍しましたが、2年の夏にアメリカへ留学しましたね。どのような思いがあったのですか。

当時の京北は、田渡凌さん(横浜ビー・コルセアーズ)のお父さん(田渡優氏)が監督でした。凌さんは僕の5歳上で、僕が入学した頃はアメリカでプレーしていて、夏休みに帰国した時などに高校で練習していました。毎年成長していく凌さんを見ているうちに、アメリカに行きたい気持ちが湧いてきました。

その頃、僕はNBAもほとんど知らなくて、ただ単にレベルの高いところでバスケがしたいという思いだけでした。今思えば、あいまいな考えですよね。お金がかかるとか、ダメだったらどうしようとか、そういうことをあまり考えず、ただ「行きたい」が先に立って…。単純ですよね(笑)。

それで、高1の終わりに父に「アメリカに行きたい」と話したら、「無理」って言われました。当然の反応ですよね。それから自分でちゃんと調べて、アメリカでやっていくための仕組みも理解して、「やっぱりアメリカに行きたいから、行かせてください」と、高2の夏にもう一回、頼みました。

そこで父も本気なんだと分かってくれて、「高校から奨学金がもらえること」「ディビジョン1の大学からスカラーシップ(奨学金)がもらえなかったら帰ってくること」を条件に、アメリカ行きを許可してもらいました。そうしてブリッジトンアカデミーのトライアウトを受けて合格し、留学しました。

 

―プロになろうと思ったのは、その頃ですか。

アメリカに行くことになって、そこまでやるならプロを目指そうと思うようになりました。もし行けたらヨーロッパに行きたいとか、日本のBリーグでやれたらいいなと思っていました。NBAを意識したのは、大学1年のシーズンが終わってからです。

 

いろんな面で考えが甘かった

―アメリカの生活や、バスケットをする環境はいかがでしたか。

いやぁ、なめてましたね。なめていたというか、初めての一人暮らしだし、授業も簡単という訳ではないし。いろんな面で考えが甘かったなと1年目から思い知らされました。

その学校はプレップスクール(大学進学のための準備をする学校)なのですが、高校を卒業した人が5年生として入るケースが多くて、周りは自分より年上ばかり。大人の中に交じって、日本人は僕一人という学校生活でした。毎日、朝8時からの授業で、お昼を食べて午後3時頃から部活。終わってから2時間の勉強会。それが終わってフリーというような生活でした。

 

―プレー面はいかがでしたか。

大変でした。初めて外国人とプレーする上に、あまりレベルの高いチームではなかったのに、何もできなかったというのが一番辛かったです。

 

―ブリッジトンを1年で辞めて、強豪校のノースフィールド・マウント・ハーモンに転校しました。そこで一番学んだことはどんなことでしたか。

ノースフィールドでは「PG(ポイントガード)はチームを勝たせることが評価の全て」ということを教えてもらいました。オフシーズンに毎日ピックアップゲームで5対5をやるのですが、コートが2面あって、勝ち残ったチームがウイナーズコート、負けたチームはルーザーズコートで試合をします。試合が終わると、監督がスタッツを教えてくれることになっているので、僕も聞きに行ったら「今日は0勝」と言われました。「それは分かっているから、僕のスタッツは?」と聞くと、「0勝。それしか関係ない」と言われました。

何点、何アシスト、何ターンオーバーなのか、そういうことは意味がないということなんです。そういうことか、と自分でも理解しました。だから、例えば全勝したら自分はベストチームのPGになれるんだ、と気付いたんです。

それからは価値観が変わりました。最終的に自分が目指しているものは何なのかと言ったら、負けず嫌いなので勝つことが一番大事。要は、自分の得点が0でも勝てたら嬉しいということに気付いて、最後には高校でリーグ優勝、全米で2位になりました。すごくうれしかったですし、勝つことを重視してきて良かったなと痛感しました。

 

―大学はスカラーシップを得て、ディビジョン1のノースカロライナ大学ウィルミントン校に進みました。1年生から試合に出て結果を残してきたと思いますが、そうした中で、日本に帰って来る決意をしたのはなぜですか。

ウィルミントンでは、試合には出られるかもしれないけど、自分らしいプレーを出すのは難しいと考えていました。でも、アシストは優れていると分かって自信がつき、その自信がプレー全てに影響したと思います。Bリーグに入ったのはもっと高いレベルでプレーしたいと思ったからです。

 

バスケットが自分の人生なんだと思った

―これまでのバスケット人生で、一番影響を受けた人、教えは何ですか。

いろんな人が思い浮かびますが、一番印象に残っているのは中学生の時(本庄中バスケット部)の顧問の先生です。その先生は女性の方で、「パスの仕方」から教えてくれました。

僕は中学生の時に、すでに180㎝を超えていたので、結構簡単に点が取れていたんです。でも、「自分で点を取ってばかりいたんじゃチームが勝てないから、どんどんパスする相手を探しなさい。自分で行ける時もチームを生かして」と言われました。

実際、大会の1、2回戦は自分で点を取って勝てるのですが、準決勝あたりになるとうまい選手が2人がかりで僕を止めに来るんです。そういうチームに2、3回負けたら、「やっぱり一人じゃ勝てないよな」と思うようになって。チームメートにはミニバスも経験していない選手もいたんですけど、先生には、「そういう選手も育てないと勝てないよ」と言われました。

周りの選手をどうしたら育てられるかなと考えて、そのためにはパスしてシュートを打たせるしかない。そこからパスを狙うようになって、最後の市民大会でやっと優勝できました。そこで初めて「バスケットが自分の人生なんだ」と思ったんです。バスケットを愛するようになった原点ですね。

周りと一緒に勝つ喜びを初めて味わえたのも、この時です。今でも忘れません。そういう経験があったからこそ、今でも “みんなで勝ちたい” という思いが強いのだと思います。

 

宇都宮ブレックス テーブス海

 

 

 

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