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川本梅花 フットボールタクティクス

【言葉のパス】第5回:亡き父からの遺言、駒野友一の憶い

【言葉のパス】第5回:亡き父からの遺言、駒野友一の憶い

この記事の取材をしたのは、駒野友一選手がジュビロ磐田に在籍していた頃である。記事を仕上げるために、駒野本人には磐田のクラブハウスで話を聞かせてもらい、そして、和歌山県に住む彼の母親には、電話で取材させてもらった。取材対象者である選手本人からエピソードを聞いて、そのエピソードに関わる家族なり恩師なりに話を聞き、物語化する。この中で語られた「父の遺言」のことを、駒野は知らずにいた。彼が私の記事を読んで、事実を知ることになる。書き手の私にとって、物語の中で取材対象者の知らなかったことを告げることができた。とても印象深い取材だった。36歳になった現在の駒野は、アビスパ福岡に移籍している。

多くの人に読んでもらいたい作品である。

父の言葉が未来の道を後押しする

玄関のドアを開けると母の泣き声が耳に響いてきた。

「どうしたん!?」

と叫んで、駒野友一は母の泣いている声がする寝室の前に立つ。

「お父さんが……」

息子に告げなければならない言葉が出てこない。

母は、正座したまま上半身を前に倒して、布団の上であおむけになったままの父の胸の上に顔を埋めた。

それは、まだ暑さが残る9月のことだった。その日の朝もいつもと同じ時間に起きて、学校に登校するために玄関のドアを開けようとしていた。背後が気になって振り返る。いつもは、その時間に起きている父の姿がどこにも見当たらなかった。

「今日は寝ているんだ。珍しいな」と不思議に思う。

駒野は、中学3年生の12月まで、地元和歌山県の海南市立第三中学校に通っていた。学校での部活動は、サッカー部と駅伝部に所属していた。サッカーでは、その頃からすでに関西選抜に選ばれるなど、名の知れた選手だった。一方、駅伝部では、中学生のレベルを超えた身体能力の高さで中心選手となっていた。駅伝部の練習は、学校の授業が始まる前の早朝6時半から行われる。自宅から学校まで徒歩で15分の距離。早朝練習のために、毎朝6時には家を出なければならない。その日も、駅伝部の練習に行くために、玄関を出てグラウンドに向かっていた。

練習を終えて1時限目の授業が始まると、グラウンドの通り沿いの道から救急車のサイレンが聞こえてきた。駒野は、教室の窓から外をのぞいた。救急車が自宅の方向に進んでいく。

「家の近くで何かあったのかな……」と救急車を目で追いかける。

しばらくすると、校長先生が大声を上げて教室に入って来た。

「友一、お父さんが倒れた。早く家に帰れ」

いつもなら学校へ行く時に起きている父が、今朝は姿を見せなかったことを、ふと思い出す。

「もしかして」と悪い予感が頭をよぎった。

彼は、慌てて家に走って戻っていく。家の奥から母の泣き声が聞こえてくる。

「僕が家に着く前に、父は息を引き取っていました」と言って駒野は、静かに言葉を絞り出す。

病名は、急性心筋梗塞だった。

駒野は、幼稚園の頃からサッカーボールを蹴って遊んでいた。本格的にグラウンドの上でサッカーを始めたのは、小学2年生になってからだった。両親は、彼のプレーする姿を見るために、何度もグラウンドに足を運んだ。

父は野球が好きだったので、サッカーに打ち込む息子を見て、「野球やらないかな」と口にしたことがあった。「野球選手になってほしい」という父の期待は、サッカーに打ち込む息子の姿を見るたびに薄れていった。父に「この子はサッカー選手に向いている」と思わせた試合がある。それは、駒野が、小学4年生の時、練習試合で見せたゴールシーンだった。

当時の彼は、FWのポジションを任されていた。サイドの選手が、駒野にパスを出す。バイタルエリアの真ん中のポジションにいた彼は、ボールを受けて少しドリブルをする。前進してきたGKのポジションを知ると、駒野は迷わずロングシュートを放つ。ボールはGKの頭上を越えてゴールネットに吸い込まれる。その場面を見た父は、「すごいわ!うちの息子は」と叫んだ。遠い距離から放ったシュートがゴールに吸い込まれる瞬間を見て、「友一はサッカーに向いている」と確信する。

中学2年生になって、それまでFW一筋で歩んで来た駒野にポジションの変更という転機が訪れる。

「関西選抜に選ばれて東京に行く時に、左サイドの中盤がいなかったんです。僕は、『誰がやるんだろう』と思っていたら、監督が『左足で蹴れるのはお前しかいない。やってみないか』って言われたんです。僕はそんなに自信があるわけではなかったんですが、実際にやってみて、FWとは違った別の世界がそこにはありました。それから左サイドのポジションをやるようになって、地域選抜でも前線に絡めるプレーができるようになって、スムーズに点が取れだしました」

駒野は、中学3年生の時に、自分の進路について悩んでいた。右足でも左足でも、同じレベルでボールを蹴れる選手を、プロのスカウトは注目しないはずがない。彼のもとには、ガンバ大阪、ジェフユナイテッド市原(現ジェフ千葉)、サンフレッチェ広島のユースチームから、さらに初芝橋本高等学校からスカウトが声を掛けてきた。

駒野が考えた選択は、地元・和歌山県の初芝橋本高等学校に進学するべきか、あるいは、サンフレッチェ広島のユースチームに所属するために広島県立吉田高等学校に行くべきなのか、ということだった。実家から通える地元のサッカー強豪高校に進学すれば、高校選手権に出場することができる。サンフレッチェ広島のユースを選択すれば、職業サッカー選手への道が近くなる。駒野は考えた末に広島のユースに行くことを決断する。

「初芝橋本高校の監督に直接『来ないか』と言われたんです。確かに高校選手権に出ることは魅力的だと思いました。『どうしようか』と悩んだんですが、広島のスカウトの方が、僕を左サイドで評価してくれたことと、クラブのユースに入れば、プロになれる可能性が高いと考えたんです。父を亡くしてからお母さんが苦労をしていて、一日でも早くプロになってお母さんを助けたいと思ったからです」と駒野は淡々と語っていた。

進学前に父を亡くした駒野は、進路相談の相手を母に求めた。練習を終えて学校から家に戻ってくると、有田焼を作っている仕事場から戻ってくる母の帰りを待つ。

「広島のユースに行きたいんだ。そうなると、向こうの高校に進学して寮生活をしないといけない」と、彼は母に進学希望先を打ち明ける。

〈プロになりたいと言うのが友一の夢やから〉という言葉を思い出して、母は心の中でぐっとかみしめる。実は、駒野の進路に関して、夫が亡くなる数日前に夫婦で話していた。その時に、「もしも友一が広島に行きたいと言ってきたら、行かせてやろう。プロになりたいと言うのが友一の夢やから」と夫が語った。駒野の母は、そうした出来事を彼にはあえて伝えずにいた。

なぜ、母は、駒野に父の遺言となった「広島に行きたいと言ってきたら、行かせてやろう」という言葉を伝えなかったのだろうか。おそらく、父を亡くしてまだ数カ月しかたっていない息子の心情を考えて、逆に、夢に向かって旅立つ前の重荷になるかもしれないと思ったのかもしれない。

そして、母は、「行っていいよ」とやさしく一言だけ駒野に告げたのだった。駒野は「絶対に広島に行くのは反対されると思っていたんです」と当時を振り返る。「いまでも、どうしてすんなりと賛成してくれたのか、分からないんですよ」と語った。母が、広島行きを嘆願する中学3年生の息子に、「行っていいよ」と背中を押したのは、「息子に後悔をさせたくなかった」という親心からだろう。そして、駒野の亡き父が残した〈プロになりたいと言うのが友一の夢やから〉という言葉が、息子を遠い場所に旅立たせる決心を母にさせたのであった。

プロへの道のりと日本代表へのステップ

駒野は、広島のユースチームへの加入を決めた。中学3年生の1月、吉田高等学校を受験するため、同じ街にある吉田中学校に転校する。そこで駒野は、生まれ育った土地から離れて、初めて1人で生活することになった。広島のユースは、全寮制(三矢寮という名)で、同期には森崎和幸と浩司の双子の兄弟がいた。広島に旅立った駒野を、母は、「あちこちからいろんな人が集まってくるので、環境に馴染(なじ)めなくて、いじめにあったら……」と心配していた。しかし、そうした母の心配は、取り越し苦労に終わる。駒野は、愛嬌のある笑顔と真面目な生活態度で、寮の生活にすんなり溶け込んでいった。

真面目な生活態度とは、休日の過ごし方にあった。当時のユースの生活サイクルは次のようなものである。火曜日から金曜日までは、学校が終わってから4時から6時半まで練習。土曜日と日曜日のどちらかが試合。月曜日は練習がなかった。寮に住む選手たちは、息抜きという意味もあって、オフの日は、みんなは食事に出掛けていく。

ある日、寮長の稲田稔が休日に出掛けない駒野に、「いつも寮にいるな」と語りかけたほど、彼は外出しなかった。ランニングをしたり、トレーニングルームで筋トレをしたり、さらに、部屋で海外サッカーのビデオを見たりして、休みの日を過ごした。

駒野は、そうした理由を次のように話す。

「お父さんが亡くなって、僕ら家族は、おばあちゃんとお母さんと姉と弟と僕の5人になりました。その頃、お母さんは、有田焼の店で働いていて、それで家族を養っていかなければならなかったんです。そんな中で、僕が、広島に行くことになります。月いくらと決まっていなかったのですが、広島にいる僕に仕送りをしてくれる。もちろん裕福ではないですから、送られたお金はできるだけ使わないようにと心掛けました。だから、チームメイトが休みの日に外出する時でも、僕は寮から出掛けないようにしていたんです」

高校3年生になると、広島は、駒野を2種登録選手にして、卒業と同時にプロ契約を結んだ。当時から駒野の特長的なプレーは、ターゲットマンに出す速いアーリークロスであった。「『速いボールを意識して蹴っているんですか?』とよく聞かれるんですが、自分は意識しているわけではないんです。普通に蹴っていて、あのような弾道になっています。ただ、スペースに走っている選手の前にボールを出そうと、そこは意識して蹴っています」。

彼が、ユースからトップチームに昇格すると、同じ右ウイングバックのポジションには、沢田謙太郎(現サンフレッチェ広島ユース監督)がいた。沢田は、ユースの頃から駒野が目標にしていた選手の1人だった。プロになって2年目に、当時の監督のヴァレリー ニポムニシに抜擢されて、駒野が使われたことで、沢田はボランチのポジションに回る。結果的にポジションを奪われた形になった沢田は、引退後にこんなことを話した。

「駒野のクロスをまねていたんだよ」

駒野は、沢田がそう言ってくれたのを聞いて「自分のクロスに自信が持てました」と打ち明ける。

2000年にサンフレッチェ広島に加入した駒野は、2001年シーズンのリーグ戦に24試合出場してプロ初得点を挙げる。その後、2007年シーズンまで広島に在籍して、翌2008年にジュビロ磐田に移籍する。サッカー日本代表のA代表には2005年に初招集され、2006年FIFAワールドカップ・ドイツ大会、さらに2010年のW杯南アフリカ大会に出場した。

代表経験の中で、駒野のサッカー観に大きな影響を与えたのは、元日本代表監督のイビチャ オシムだった。駒野はその時のことをはっきりと覚えている。それは、ある親善試合の前半戦が終わってハーフタイムに入った時に起こった。左サイドバックを務めていた駒野は、相手の右サイドハーフがグラウンドの中央にポジションを取るので、その選手をマークしようと同じように右に付いていった。それを見ていたオシムは、ロッカールームで駒野をつかまって指示を出す。

「相手の右サイドハーフにつられて中に移動するな」

オシムは、そう言うと、ホワイトボードにある丸いマグネットを持ち出し、味方と相手の選手を配置していく。オシムは、赤いマグネットを1つ手に取る。駒野のスタートポジションから少し前の位置にマグネットを置く。日本側から見た際の左のタッチラインに当たる場所だ。

「いいか、相手のサイドハーフがボールを持ったら、お前は、この位置で待っていろ。相手を追わなくていい。お前がいる場所にボールが回ってくるから」

後半戦が始まると、駒野はオシムに言われた通りのポジショニングをした。

「いや、守っていて、びっくりしたんですよ。まさか、オシムさんが言われたように、本当にボールが来ると思っていなかったんで。先の先まで展開を読める。こういう風にサッカーが見られたらプレーの幅も違ってくるなって思いました」

そう言って、彼は腕組みをして視線を上げる。

さらに、駒野の記憶に深く刻まれているのは、W杯・南アフリカ大会でのPK戦である。決勝リーグに進出した日本がパラグアイと対戦した。0対0のまま延長戦でも決着せずにPK戦へともつれ込む。3人目のキッカーに選ばれた駒野だったが、彼のキックはバーを直撃してノーゴール。それが、事実上、日本の敗戦に結びついたことから、駒野は、自責の念に激しく苦しんでいた。

そうした彼に、試合後、母から携帯にメールが届く。

「いい試合を見せてもらったよ。ありがとう」

メールの文面を読んだ彼は、「許されたような気がした」と思って涙した。亡き父の代わりとなって、駒野のそばにはいつも母のやさしさがあった。

駒野は、サッカーを初めてすぐに「プロになりたい」という夢を持った。その夢を実現できたのは、彼がサッカーの練習や普段の生活に対して、ストイックに取り組んだ結果なのだろう。そうしたストイックな姿勢を生み出したのは、父の死を乗り越えようとして、必死で生きてきた、彼のメンタルの強さと広島に送り出した母の存在があったからである。

「広島に行きたい」と言った駒野に、父が亡くなってすぐの状況下で、母は「行っていいよ」と告げた。それには、先に述べたように母に託した父の言葉があった。

「あの人が亡くなる前に、広島のスカウトの方から話があって、『友一を広島に行かせてあげよう』と言っていたんです。だから、あの子に『広島に行きたい』と告げられた時、反対しなかったんです。プロになるのは、子どもの頃からの夢でしたから、後悔だけはさせたくなかった」

一方で駒野は、「お母さんの姿を見て、どれだけ苦労をしているのか分かっていたので、自分がプロになってお母さんを楽にさせたい、という気持ちが強くありました。僕は長男ですから、一日でも早くプロになってお母さんを助けたいと思いました」と語る。

普段は〈余計な心配を掛けないように〉自重していた電話だったが、プロ契約した彼は、すぐに母に電話をした。その時、受話器の向こうにいる母に「プロになったよ。お母さんを楽にさせてあげるから」と告げる。その年から、駒野は実家に仕送りをして、弟の大学の授業料などを負担して家族を支えた。

彼は、母に対して「反対せずに、広島に行かせてくれたことに感謝しています」と話す。その言葉は、同時に亡き父にも伝えられる。

「友一を広島に行かせてあげよう」と言った父の遺言は、生涯にわたって駒野の心の支えになっている。

川本梅花

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