川本梅花 フットボールタクティクス

【無料記事】1人の人間の中にいる「現実主義者」と「陽気人間」【コラム】映画「陽だまりのイレブン」を見て

映画「陽だまりのイレブン」を見て

ジーコのことを元日本代表監督と呼べばいいのか。あるいは、鹿島アントラーズの元選手と言えばいいのか。いずれにしても彼が、日本サッカー界の発展に大きく貢献したことは間違いない。

ジーコの名前を思い出したのは、今季のJリーグの優勝争いを見ていた時だった。独走態勢に入ったかに思われた鹿島が、川崎フロンターレに優勝をさらわれた日、私は、なぜかジーコのことが頭をよぎった。正確に言えば、ジーコがかつて発した言葉を思い出したのである。それはこんな言葉だった。

人生とは挑戦だと思う。うつむいてはいけない。いつでも困難を乗り越えないといけない。人生はバラ色な時ばかりとは限らない。前を向いて、目の前の階段を上っていかないといけない。そして、その階段を1段、2段は下らざるを得ないことだって、何度もある。その時は下ることも必要だ

最後のフレーズに、鹿島の敗北が投影させられる。

階段を1段、2段は下らざるを得ないことだって、何度もある。その時は下ることも必要だ

常勝するためには、下ることも必要なのだろう。確かに、そうした反復が、常勝・鹿島アントラーズを創り出したのである。

ジーコ主演の映画「陽だまりのイレブン」は、上記の言葉を編む出すジーコではなく、コミカルでおふざけのジーコが顔をのぞかせる。映画自体、超B級と言えば、B級映画に失礼になるほどのC級映画だと言える。こうした映画の内容の企画が通ったのは、ジーコだからだろう。

映画のプロット

ジーコが、主演を務めたファミリーエンターテインメント。ジーコは、未来のブラジル代表候補を育成するために、ブラジル中から優秀な子供たち22人を選抜して、「ジーコサッカー教室」を開く。練習メニューを順調にこなしていると、突然ジーコの身に奇想天外な出来事が降りかかる。これは、間違いなく超B級なトンでもない映画である。

ブラジルにサッカーが伝播した日

ブラジルでサッカーが伝播したのは、アルゼンチンやウルグアイよりも遅い。最初のサッカー伝道者は、英国系ブラジル人のチャールズ ウイリアムス ミラーだと言われる。彼は、1874年サンパウロ生まれで、イングランドのサウサンプトンに留学し、1894年にブラジルに帰国した際に、サッカーのルールと用具一式を持ち帰る。のちに彼は、サンパウロでサッカークラブ設立に助力する。

当時のブラジルのサッカーは、上流階級のためのスポーツだった。そうした状況下の中で、サッカーを大衆化したのが、黒人と白人の混血選手で、1909年に初めてサッカークラブでプレーしたアルトゥール フリーデンライヒの存在だった。彼の登場が、その後に混血や黒人の選手でもピッチに立てる状況を生んだ。このことは、貧しい黒人や混血の選手が、サッカーによって社会的なステータスを勝ち得ることを可能にした最初の事象となる。

ジーコ vs ジーコピー

さて、今回取りあげる映画は、上述したような歴史的な話とは無縁なもの。

“サッカーの神様”ジーコが主演して、実の家族も登場する娯楽作品である。これは、ただの娯楽作品ではない。日本で言えば、映画評論家の水野晴郎が監督した『シベリア超特急』シリーズに比類する作品だ。

この映画のストーリーは、基本的に、ジーコが通って来た道によって、子供たちをその道に従って手助けするというものである。

まずはじめに、ジーコがブラジル全土から22人の子供たちを選抜してサッカー教室を開く。そうした中で、“サッカーの神様”に選ばれなかった金持ちの子供が、逆恨みをしてジーコへの復讐(ふくしゅう)を決意する。その子の父は、バイオテクノロジー会社の社長だった。その技術を利用して、ジーコの生体コピー(“ジーコピー”という)を作って、コピーしたジーコを自分のプライベートコーチにしようと企てる。

コピーされて2人になったジーコは、人格が分離してしまう。一方が「厳格」なジーコで、他方が「陽気」なジーコ。ラストの場面は、「陽気」なジーコが率いる選抜チームと、「厳格」なジーコが指揮する金持ちの子供が連れてきたチームとの対戦になる。

現実と陽気の絶妙

この映画でのジーコは、《生体コピー技術には欠陥があって人格が分離してしまう》という設定に従い、2つの人格を見事に演じている。コピーされた本物ジーコは、練習後の講義で「チームを愛する心より金だ!」とか、「億単位の契約を結べるよう励め!」とか、スパルタ指導の〈現実主義者〉。そして、ジーコピーの方は、ラテンのノリで歌ったり踊ったりのお祭り騒ぎな〈陽気人間〉。

こうした「ジキルとハイド」のような極端な人格を、自然に演技するジーコには、ただただ脱帽するばかりだ。サービス精神旺盛な彼の人格は、あながち陽気なジーコピーが多くを占めているのかもしれない。

当然、1人の人間というものは、〈現実主義者〉的な部分と〈陽気人間〉的な部分を兼ね備えて個人の人格を保っている。どちらかの人格が突出したなら、日常生活は破綻してしまうのだろう。

日本代表の監督として、ワールドカップで優秀な結果を残せなかったジーコであるが、彼が私たちに示したものは、クラブ監督と代表監督の仕事は、全くの別物であるということである。監督であることは、パーソナリティーの中で〈現実主義者〉的な部分と〈陽気人間〉的な部分の割合がとても難しい。いまの日本代表監督、ヴァイッド ハリルホジッチを見ていて、そう思うのである。

川本梅花

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