川本梅花 フットボールタクティクス

【無料記事】“困りの者”のトリックスターが新しい価値を創る【コラム】映画「ベッカムに恋して」を見て

【コラム】“困りの者”のトリックスターが新しい価値を創る

「ベッカムに恋して」を見て

映画のプロット

舞台は、ロンドンの西部郊外にあるヒースロー。主人公の女の子ジェス(パーミンダ ナーグラ)は、インド系移民2世でシーク教の伝統を守る家庭に生まれた。ある日、彼女は公園でストリートサッカーに興じていた。彼女のプレーを見つけたジュールズ(キーラ ナイトレイ)は、彼女を自分のクラブに誘う。異文化に生まれた親に反対されながらも、人々の助けによってアメリカの大学にスカウトされるまでを描く。恋と友情、家族の愛と葛藤を描いた快作。

ヘッセの『デミアン』の一節を思わせる

映画『ベッカムに恋して』の原題「Bend It Like Beckham」は、「ベッカムのようにボールを曲げろ」の意味。デイビッド ベッカムのFKは、彼にしかできない技術でもってカーブを描いてゴールマウスに吸い込まれる。彼のキックが決まる瞬間は「神の力が働いてゴールしたに違いない」と思える時がある。

僕たちは、ベッカムが蹴ったボールが信じられないような回転でゴールした場面や、考えられないような角度からのゴールを何度も目撃してきた。作家ヘッセは、『デミアン』の中で「鳥は神に向かって飛ぶ」と書き記した。このアフォリズムは、ベッカムが蹴ったボールの曲線を物語っているようだ。ベッカムのFKは、蹴られたボールがゴールマウスを目指して、まるで「神に向かって」飛んでいくように放たれる。

シーク教と偶像崇拝、そしてベッカム

デイビッド ベッカムは、1986年に11歳でマンチェスター・ユナイテッドのサッカースクールに入学する。彼は2003年6月にレアル・マドリーに移籍するまで、17年間をオールドトラッフォードで過ごした。マンチェスター時代のベッカムの最も輝かしい活躍は、FAプレミアリーグ、FAカップ、UEFAチャンピオンズリーグの三冠を達成したシーズン(98-99)だろう。映画『ベッカムに恋して』は、そんなマンチェスター時代のベッカムに恋い焦がれる女の子の成長物語が描かれている。

主人公の女の子ジェスを演じるのは、イギリス出身の女優パーミンダ ナーダラ。彼女の名前の由来は、とても興味深い。パーミンダはParminderと書く。名前の後ろ部分のinderは、インドの神インドラから取っている。普通インドでは、人の名前に神の呼び名をつけるのは、ヒンドゥー教徒の男子だけと決められている。したがって、女子の名前に神の呼び名がついていると、その女子はシーク教徒だと分かる。映画の中で登場する主人公もパーミンダと同じくシーク教徒に属する。シーク教とは、ヒンドゥー教の教えを基盤にしてイスラム教の教えを取り入れたインド固有の宗教を言う。

シーク教はイスラム教に影響されたので、「偶像崇拝の否定」と言って神以外のアイドル化した存在は認めていない。だから、本来ならばベッカムを神のようにアイドル化して崇める主人公ジェスの行いは許されない。しかし映画の中のジェスは、自室の壁にベッカムの写真を「これでもか」というほど貼りまくっている。彼女の両親は、娘のそんな行いを見て見ぬふりをする。これは、父親の時代は厳しかった教えが、現代の考え方や暮らし方にかなうように教えを緩くしたせいだろう。もう1つの理由は、あこがれの人ベッカムの持っているスター性によると思われる。そのスター性は「トリックスター」と分類されるものだ。この映画には、ベッカムのトリックスター性とジェスのそれの両方が表現されていて、そのことがこの映画を興味深くしている。

トリックスターが新しい価値を創る

トリックスターとは、心理学者ユングによれば神話の中でいたずら者などの像として現れるモチーフのことであると言う。トリックスターの一見奇抜な行いは「終わってみれば良い方向に向かっていた」という話で決着する。つまり、最初は人々に迷惑だと考えられた存在が、彼のおかげで結果的にはうまく物事が運び、人々は「万々歳」と喜ぶことになる。これが、トリックスターの人々に与える効果だ。

映画の中で、ジェスのトリックスター性はすごく強調されている。彼女は、子供の頃に足にやけどを負っていて、ストリートサッカーに夢中な、ボーイフレンドもいず、ベッカムに恋い焦がれる存在として描かれる。それと対照的に、彼女の姉はとても色っぽくて金持ちの婚約者がいる存在として登場する。両親にとっては、姉と比べると「困った存在」の末娘という設定だ。ジェスのある行動がキッカケで姉の婚約が破談になる。家族全員はジェスに対して「お前のせいで」という迷惑者のレッテルを貼る。同様に、ジェスが好きなサッカーがすべての原因となったとして、そのキッカケを作ったベッカムも厄介者と見なされる。

この厄介者としての存在は現実のベッカムにも当てはまるのではないか。1998年のフランスW杯を思い出してもらいたい。決勝トーナメント1回戦での対アルゼンチン戦。シメオネのタックルで倒されたベッカムは、報復行為を働き、一発退場させられる。チームも敗退し彼は「10人のライオンと1人の愚か者」という苛烈な批判を受ける。

しかしトリックスターの優れている点は、前述のように「困り者」という立場から逆転して、「価値の高い者」に変身することだ。映画の中では、ジェスの得意なサッカーによって物事すべてが丸く収まっていく。現実のベッカムの方は2002年の日韓W杯、グループリーグFの対アルゼンチン戦でPKによる決勝点を挙げてチームのベスト8進出の原動力となった。

新しい秩序や価値観というものは、しばしばトリックスターから生まれるものだ。世の中で「困り者」と言われる人が、この先どのような可能性を持っているのか、誰にも計り知れないのだとこの映画は問いかけているように思えた。

川本梅花

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