川本梅花 フットボールタクティクス

【無料記事】アーセナルに取りつかれた男の魂がここにある【コラム】映画「ぼくのプレミア・ライフ」

映画「ぼくのプレミア・ライフ」を見て

映画のプロット

生活の中心はアーセナル。寝ても覚めてもアーセナル。ホームでの試合がある日はどんな犠牲を払ってでも、ハイバリーに試合を見に行く。それがチームへの忠誠と信じて疑わない。アーセナルに懸ける思いをひたすら書き上げた、ニック・ホーンビィの鮮烈なデビュー作をもとに描かれた映画。アーセナルに取りつかれた男の自伝を映像化している。

「苦痛としての娯楽」に人生をささげる

サッカーのコアなサポーターについて考えてみた。

熱狂的なサポーターとは、「想像力を持ち過ぎる人」のことを指すのだろうか。特定のチームに対して想像力豊かに熱情をささげられる人。いや、そんな表現では甘い。自分の衣・食・住全てが、信仰すべきチームのスケジュールによって左右される人。まだ駄目だ。まだこれでは、表現に優しさが残っている。

いろいろと思案してた結果、「救いようがない大バカ者」とのフレーズはどうだろうか。これが、ぴったりとくる、据わりのいい表現だと納得した。

ニック・ホーンビィの著書『ぼくのプレミア・ライフ』は、アーセナルに人生全てをささげた救いようがない大バカ者が書いた、妄想狂的な叙事詩である。その本を脚本化して、映画にしたのがこの作品であり、人生のターニングポイントとなったサッカーと彼の人生に関する出来事が日記形式をもとで描かれる。

最初の場面は、主人公がアーセナルに恋した1968年9月14日から始まる。その日、彼は母と別居していた父に誘われてハイバリーに行く。試合は、アーセナル対ストーク・シティの一戦。この観戦で主人公が感心したことは、観客がスタジアムにいることを心底憎んでいたことだ。今でこそ、アーセナルは、所属選手を各国代表に送り出すプレミア強豪チームであるのだが、主人公の少年期から青年期に掛けて――70-71シーズン以来、88-89シーズンのリーグ優勝まで――18年間も栄冠から遠ざかっていたチームだった。

サッカーが大衆向けの娯楽であったなら、人はお金を払ってその娯楽を楽しむためにスタジアムに赴くだろう。しかし、当時のスタジアムは、試合に対しての激怒と絶望の中、フラストレーションで顔をゆがめる人の方が圧倒的に多かった。主人公は、スタジアムでのサッカー観戦を「苦痛としての娯楽」だと言う。少年であった彼には、この「苦痛としての娯楽」は今まで味わったことのない体験であり、この日の観戦が、彼の人生のターニングポイントとなる。

アーセナルへの片思いが生む詩

フットボールは、主人公の人生の中で、意味ある出来事全てに影を差す。友人の結婚式が試合の日にあったなら、もちろん招待状の欠席届に印をつける。さらにフットボールは、彼にとって「心のメタファー」になる。それは、フットボールが、彼の感情を煽(あお)るものという意味で「心のメタファー」だと言える。主人公の感情が最も煽られた瞬間は、やはり88-89シーズンのリーグ優勝の時だろう。このシーズンは、悲惨な出来事や感動的な試合によって人々には決して忘れられないものとなる。

悲惨な出来事とは、「ヒルズボロの悲劇」と呼ばれるものだ。主人公は、89年4月15日の事件を詳細に思い出す。試合は、FAカップ準決勝、リバプール対ノッティンガム・フォレスト戦。入場券を持っていないリバプールのサポーターが、ゲートを破ってスタジアム内に乱入する。周囲にいた者がつられて走り込む。数千人が狭いゲートに殺到し、サポーターが次々になだれ込んで柵に押しつぶされ、死者96人、負傷者200人以上を出す大惨事となった。この出来事は後に、サポーターの行きすぎた行為という判決から、警察の偽証と警備側の過失が問題となり、逆転の判決が下された。

感動的な試合とは、同年5月26日、18年ぶりにアーセナルがリーグ優勝を決めた日である。対戦相手は、勝点76で首位を行くリバプール。一方、アーセナルの勝点は73。アーセナルが優勝するには、2点差以上での勝利が必要だった。ここまで、24試合無敗のリバプールに対して、2点差で勝つのは至難の業と思われていた。試合は、後半7分、アーセナルが先制する。しかし、リバプールの堅固なディフェンス陣に、シュートチャンスさえ与えてもらえない。時間は刻々と過ぎていく。そこで、アーセナルが最後の攻撃に出る。MFマイケル トーマス。時計は91分26秒。彼はGKと一対一になり、落ち着いてゴール右隅に2点目となるシュートを決める。

主人公は、優勝の感激を「どんな人の、どんな人生における、どんな最高の瞬間も、この優勝には例えられないと思う」と語る。映画の中で、このシーンが映されていて、実際のゴールの映像を見ることができる。

この映画は、主人公のアーセナルへの一方的な愛の告白だと言える。彼の愛情が、深ければ深いほど、魂のこもった言葉が発せられる。主人公のように、妄想狂的なサポーターで、フットボールを叙事詩のように語れる人が、クラブのサポーターだったならば、敬愛すべき対象となるのだろう。

川本梅花

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