川本梅花 フットボールタクティクス

【無料記事】自分のプライドを守るため…暴力を支える2つの考え方とは【コラム】映画「フーリガン」

映画「フーリガン」を見て

映画のプロット

主人公のマットは、ジャーナリスト志望の大学生である。ある日、彼は、寮の同室人が犯した麻薬売買の罪をかぶり、大学から放校処分を受ける。やがて彼は、姉を頼ってイギリスへ渡る。そこには、姉の旦那である義兄・スティーブの弟・ピートがいた。ピートは“フーリガン・ファーム(コアなサポーター)”のリーダーであった。マットは彼らの仲間たちと親交を深める。物語は、FAカップでの対戦相手がライバルチームに決定した日から、加速度を増して終焉へと向かう。

フットボールとサッカーの発祥の地

歴史上、記録にあるフットボールの最初の試合は紀元217年、聖灰水曜日の前日にイングランドで行われた、と伝えられる。当時、欧州一帯を支配化に治めていたローマ帝国の軍隊を撃破した祝祭の一環として開催されたものだという。のちに、聖灰水曜日の前日を記念して、1175年には“火曜日のフットボール”の試合が年次行事となる。1863年にロンドンフットボール協会が形成されるまで、村対抗で参加人数制限なし、手を使わずにボールをゴールに蹴り込むこの競技を人々は「フットボール」と呼んだ。

もう1つの名称である「サッカー」は、1823年頃にラグビーが登場し、当時はともに「フットボール」と呼んでいたので、ボールを使うこれら2つの間で名称の混乱が生じたために作られた用語である。

これは、フットボール協会の英語名アソシエーション・フットボール(association football)のsocに、「~する人(もの)」という行為者を表す名詞を作る時に使う接尾辞erを付けて作られた用語である。soccerのcという子音が2つあるのは、短母音oの後に子音は重複するという、英語やドイツ語が属する、ゲルマン語族の音の法則に従っている。こうしたフットボールとサッカーの発祥の地・イングランドが、映画「フーリガン」の舞台である。

暴力を支える2つの考え方

この映画では、暴力的なシーンが多く見られる。しかし、レクシー アレキサンダー監督は、暴力を描くことで暴力を否定しているわけでも肯定しているわけでもない。暴力によって人は生きるために必要な何かを失っていくのだ、と告白しているように、訴えてくるのだ。人が失っていくものとは、命そのものであり、家族や友人であり、そして人と人を結ぶ尊くて壊れやすい「絆」である。しかし厄介なのは“こうしたら人が傷つく”という教訓を得るためには、人は悲しいかな、暴力も必要なのだと肯定することも辞さない生き物なのだ。

暴力を支えているものが何かを考える時、バルター ベンヤミン(1892-1940)というドイツ人の思想家の論述を思い出す。ベンヤミンによると、暴力は2つの考え方によって支えられているという。1つ目は、目的が正しいのだから暴力という手段が正当化されるという「個人の考え方」である。2つ目は、目的の正しさをスローガンに、手段として暴力を行使したことの適正性を保証しなければならないとする「国家の考え方」である。

映画の中の登場人物たちは、ベンヤミンの言う「個人の考え方」に従って行動する。彼らは、自分の行為が正しいことを保証するために、プライドという看板を持ちだす。ある者は暴力が行われている渦中で“自分のプライドを守るために行使されてしかるべき”と当然視する。また別な者は、暴力にはもう参加しないと誓いを立てても、巻き込まれる格好で結局は暴力に加担し、正当化の罠(わな)に落ちる。

最大の見せ場はラストシーン

例えば、マットの義兄・スティーブの場合を見てみよう。スティーブは、フーリガン・ファームの伝説的なリーダーだった。彼は、マットの姉のシャノンと出会って、彼女と子供のために、もう二度とフーリガン生活に戻らないと誓いを立てる。しかし、スティーブはマットに身の危険が迫っていることを知ると、フーリガンたちが集まるカフェに出向き、最後には家族を、弟を、彼の生きる証し全てを失う結果になる。

はっきりしていることは、どちらの世界が彼にとって“生きているという実感”を持てたのかということだ。彼は自分が暴力を振るったことで、支えられて守らなければいけない「杖(つえ)」という家族を捨てなければならなくなる。その杖は、彼自身が潜在的に持っていた「正義」を支えるものだったのだ。

この映画のラストは爽快感を与えてくれなかった、という意見もあるだろう。マットは、麻薬売買の汚名をそそぐためにアメリカに戻る。彼に汚名をきせた人物は、政治家の息子であり、権力と権威を盾にしている。だから抵抗しても無駄であり、自分が無実だと弁明しても受け入れてもらえないと考える。問題はラストシーン、マットの決着のやり方だ。彼が、自分と向き合ってどのように汚名をそそぐのか。それが、この映画の最大の見せ場である。

川本梅花

« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ