川本梅花 フットボールタクティクス

【コラム】勝利の瞬間に「気は確かかと言ってくれ!」と絶叫した【無料記事】映画「ベルンの奇蹟」を見て

映画「ベルンの奇蹟」を見て

映画のプロット

物語の舞台は、第2次大戦終結から9年が経過した工業都市エッセン。サッカードイツ代表は、1954年のスイスW杯に出場を決める。開催地は首都ベルン。主人公の少年マチアスは、地元選手のヘルムート ラーンを慕う。ラーンが代表に選ばれてベルンに旅立った後、主人公の少年は、11年間ソ連に抑留されていた父の帰国を母から知らされる。やがて少年は、ある行動に出る。この映画は、戦後のドイツ人に再生と勇気と希望を与えた奇蹟の物語を描いている。

映画のリアルは、セットと編集技術と出演者によって作られる

監督・製作・脚本を担当したボルトマンは、元ブンデスリーグの選手であった。そのためかスイスW杯の決勝会場になったバンクドルフ・サッカースタジアムを、ドイツのボンに当時のままに再現させてしまったほど、サッカー場の雰囲気にこだわりを持ってこの映画が作られた。監督は、初日の撮影をこの仮設スタジアムから始めたと言う。

さらに彼は、ドイツでは初めての「デジタルカラー調整プロセス」という技術も採用した。従来の映画は、フィルムで撮影され現像されたネガからプリントを焼いて、それをエディターが、じかに切り取りしていた。現在では映像をコンピューターに取り込んで、そこからエディターがコンピューター上で編集を仕上げる。したがって、フィルムのカラー調整は、デジタル技術によってコンピューター上で行われ、複雑で高度な色を出すことができる。

またこの映画のリアリティーに一役買っているのが、父親役のペーター ローマイヤーと息子役のルーイ クラムロートが実の親子であることだろう。親子共演を通した何気ないやり取りによって、11年たって再会する親と子供の距離感が、時間の経過とともに少しずつ近づいてくるリアルさを表現できている。

ドイツの再生と親子の再生

この映画は、父と子供の再生を描いているだけではなく、戦後のドイツ人の再生をも描こうとしていると言える。ソ連の捕虜として過ごした人間。その再生のキッカケは、1954年7月4日の「ベルンの奇蹟」がもたらしたものという設定である。

この時代は、家族の中での「父親の不在」が大きな社会問題となっていた。不在の理由は、男子が戦場にかり出されたからである。映画の中では、父の存在を埋めるべく、母が子供3人を養うために居酒屋で働いている。「父は戦死したのだ」と家族みんなが思っている。

そこに突然、父が帰還する。11年間も行方の知れなかった父との再会は、当然3人の子供たちに動揺を与える。埋められそうで埋まられない壁が親子の中に生じている。父は、空白の時間を取り戻そうと焦ってしまう。父の焦りは、逆に子供たちを不安に陥れるだけだった。

そうした親子の中に生じた微妙な歪みを解消したのが、サッカーだったのである。ある日、父が教会を訪れる。彼は、牧師に自分の心境を告白した後で外に出ると、サッカーボールが目に入る。父は、そのボールを使ってリフティングを始める。この場面の彼のほほ笑みは、サッカーが彼にポジティブな思考をさせた瞬間だと言える。人を生きるということに前向きにさせたもの、それがほかでもない、サッカーボールを蹴ることだったというのが、この映画では重要なのである。

ヘルベルガーの言う真理

ハンガリーとのW杯決勝戦を3-2で勝利したドイツ代表の監督ヘルベルガーは、「試合は90分」「ボールは丸い」「次の対戦相手がいつも一番手ごわい」というサッカーの真理を述べている。これらは、“今の栄誉にはいつまでも満足してはいけない”ということを意味している。つまり、“ごう慢さは終わりの始まりだ”と語っているのだ。このことを映画では、父が、家父長的な保守主義を捨てて息子と接した時に、11年間の不在を取り戻せたように描いているのである。

『ブンデスリーガ ―ドイツサッカーの軌跡―』で読む「ベルンの奇蹟」

この映画の「ベルンの奇蹟」の内容は、『ブンデスリーガ ―ドイツサッカーの軌跡―』(発行:バジリコ、著:ウルリッヒ ヘッセ リヒテンベルガー)の中でも取り上げられている。その記述を通して、ドイツサッカーの歴史にも触れよう。

体操競技がメインスポーツであった19世紀後半のドイツで、どのようにサッカーが始まったのかを調べることは至難の業のようだ。だからこれは、本当の話かどうかは分からない。歴史家のハンス ディーター バロートによると、ドイツにサッカーが誕生した瞬間は、1874年10月、中学校教師のアウグスト ヘルマンが、イングランドからサッカーボールを取り寄せて、スローイングを最初に実践した時からだと話す。著者リヒテンベルガーは、イングランドからドイツへのサッカー伝播調査を「何度もくじけそうになる作業」と言うように、通説とは裏腹な話がいくつも存在する。

ドイツリーグはブンデスリーガ(Bundesliga)と呼ばれる。これは「連邦リーグ」の意味で、ドイツ語圏で連邦制を採用している国で行われるさまざまスポーツリーグの総称として用いられている。ドイツでサッカーのブンデスリーガが創設されたのは、1963年の西ドイツだった(1990年に東西ドイツが統一される)。「ベルンの奇蹟」(本の中では「奇蹟」ではなく「奇跡」と日本語が当てられている)は、ブンデスリーガが創設される9年前、1954年夏の雨の日の出来事だったのだ。

罪の意識が熱狂させた

本書の「気は確かかと言ってくれ――ベルンの奇跡――」(187~211ページ)には、どれほどのドイツ人が、スイスW杯で優勝候補のハンガリーを決勝戦で打ち破ったこの勝利に沸き返ったのかを記している。W杯優勝チームが凱旋帰国するもようを、ミュンヘンの新聞は「たとえ王様でも、こんな熱烈的な歓迎を受けた人はいない」というほどの人々の歓迎ぶりを伝える。こうした国民の熱狂は、第2次世界大戦で敗戦国になったということよりも、ヒットラーが中心になって侵したユダヤ人虐殺や欧州侵略に対する罪からの“心理的解放”という意味が強かったようだ。

例えば、作家フリードリッヒ クリスチャン デリウスは、「ベルンの奇跡」を回想し病弱だった自分の少年時代と照らし合わせて、「自制心からも神の呪縛からも解き放たれた。これほど軽く感じたことは、それまでなかった」と自叙的小説の中で記すほどだ。この世代のドイツ人は、彼のように個人の境遇を戦後の西ドイツが置かれた状況の比喩としてしばしば引用する。ナチスという罪の意識にさいなまれ、抑圧されていた国がW杯優勝によって解放され再生する姿を夢に描いたとしても不思議ではない。だからドイツ人は、この勝利に対して「われわれは何者かになれたのだ」という定型句を作り上げたほどだ。

奇跡を可能にした情報戦

当時の監督ゼップ ヘルベルガーは、この成功の秘密として3つの要因を挙げた。

1.技術が3分の1
2.チームの一体感が3分の1
3.運が3分の1

確かにハンガリーとの決勝戦は、これら全てがそろっていた。しかし、実は監督は試合のために用意周到に準備をしていたと打ち明ける。雨を考慮して、参謀役のアディ ダスラーは、アディダス製のスパイクに長めのスタッドを用意していた。さらに試合の数週間前に、現地に入ってピッチの状態を調べていたのだ。つまりそれは、戦う前の情報戦ですでに勝利を収めていたことになる。こうしたヘルベルガーの作業は、現在のドイツ代表にも通じるものだ。

著者は、ゼーラーやベッケンバウアー、マテウスまで、後の世代がどれほどの偉業を成し遂げてきたとしても、「『ベルンの奇跡』を実現した代表選手にかなう者は誰もいない」と言う。戦後を体験した、オールドファンの頭の中には、勝利の瞬間にアナウンサーが「気は確かかと言ってくれ!」と絶叫した声が今でも響いているに違いない。

それほどまで、「ベルンの奇蹟」は、現代ドイツ人のアイデンティティーの柱になっている物語の1つだと言えるのである。

川本梅花

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