川本梅花 フットボールタクティクス

【無料記事】チェルシーを描かない監督の“戦術”【コラム】映画:「フットボール・ファクトリー」

映画『フットボール・ファクトリー』を見て


映画のプロット

主人公トミーは、プレミアシップのチェルシーFCへの偏愛を持つフーリガンの1人。ドラッグ、酒、SEX、暴力を生きる力にして毎日を過ごす。ライバルチームのフーリガンとの抗争が激化していく中、やがて彼の生き方に変化が訪れる。この映画は、フーリガンの実態とともに、イギリスの闇の世界を映し出す、衝撃のバイオレンス作品である。

チェルシーを描かない監督の“戦術”

映画「フットボール・ファクトリー」に登場する主人公トミーは、イングランドのクラブチーム、チェルシーのサポーターを名乗るフーリガンである。彼が熱を入れるチェルシーは、1905年に設立された伝統あるクラブだ。

近年になってジョゼ モウリーニョが監督に就任し、しっかり守ってからカウンターを仕掛けるというオーソドックスな戦術で、常勝クラブの仲間入りをした。選手に目をやれば、MFフランク ランパードがサイドチェンジの際に見せる美しいロングパスや、DFジョン テリーがハイボールで相手と競り合う時の力強さには、モウリーニョの固い戦術を凌駕(りょうが)する、個人の独創的なプレーがうかがえた。

さらに、イタリア代表監督を務めたアントニオ コンテがチェルシーの監督になると、イタリアでも用いていた3バックを採用して、2016-17シーズンのリーグ優勝をもたらす。エデン アザールの再生など既存の選手の掘り起こしをして、チーム力を向上させたが、イギリスの報道による「うわさ」では、来季UEFAチャンピオンズリーグ出場権を逃したことで、今季限りで退任するのではと話題になっている。

しかしこの映画には、そういった戦術的な話題とか、サッカー選手の華麗なプレーとか、スタジアムでの試合風景は、全く映し出されない。これは監督ニック ラブの見事な“戦術”と言える。つまりサッカーのプレーを映し出さないことで、フーリガンが、どうしてこの世に存在するのかを問い掛け、理屈なしに描き切っているのである。

フーリガンにとっては、極端に言って、選手がどんなプレーをしようが、試合の勝敗がどうなろうが興味の対象ではないと問い掛けているようだ。彼らに重要なことは、自分の応援するチームが、どのチームと対戦するのかにある。なぜなら、対戦相手がライバルチームであればあるほど、敵対心は燃やされ憎しみや怒りが増して、仲間内では、暴力が正当化されていくからだ。

イギリス映画はリアリティーを求める

この映画は、ドラッグ、酒、SEX、暴力に手を染めるフーリガンというテーマとストーリー、その映像、音楽という手法の両面で、まさにイギリス社会の匂いを漂わせている。同じ匂いのする作品といえば、仲間たちと怠惰な毎日を過ごすヘロイン中毒の主人公を描いた『トレインスポッティング』や、ギャンブルで作った借金を返すために、マフィアの情報を盗み聞きしてマリフアナ工場を襲撃する『ロック、ストック&ツー・スモーキング・バレルズ』が挙げられる。

イギリス映画は、常にリアリティーを追い求めるので、物語がハッピーエンドで終わることはあまりない。したがって『フットボール・ファクトリー』も同様に、ラストシーンで何か救いがある場面が描かれることはない。

この作品では、主人公トミーが夢で見る物語の答えを知るシーンがラストになっている。彼は、ライバルチームのフーリガンに袋だたきにされる夢を見る。その夢の最後に、包帯を顔に巻いた人物が登場する。トミーは、彼が誰なのか必死に探ろうとするが、いつも分からないままで夢は終わってしまう。

夢を見始めたキッカケは「フーリガンでいる自分」と「フーリガンではない自分」という対立関係がトミー自身の中で生まれたからだ。つまり主人公は、フーリガンという刹那的な生き方とは違う、人間の「生」に対する執着を初めて持ったのである。

自分がいったい本当は誰なのかという問いは、近代になってから出現したわけではない。日本でいえば8世紀頃に活躍した宗教家・空海の発言に、すでにこの萌芽(ほうが)がうかがえる。空海の話によれば、まず「鏡を見る自分」と「鏡に映る自分」とを対立させる。そうすると、いったいどっちの自分が本当の自分なのか分からなくなる。そこで、空海先生のアフォリズムの「私が鏡を見れば」という最初の文に注目する。つまり、鏡を見ている自分は、意志があって鏡を見ているのだ。それに対して、鏡に映る自分には意志がない。ただ映像化されているだけである。

フーリガンがフットボールを利用している

この鏡の現象をトミーに置き換えてみる。「鏡を見る自分」=「フーリガンでない自分」となり、「鏡に映る自分」=「フーリガンでいる自分」である。すなわち、フーリガンである自分が、鏡を見ているのではない。そうではなく、自分がフーリガンだと自己演出しているだけなのだ。主人公は、フットボール好きでチェルシー命の生粋のフーリガンだと信じている。

しかし、本当にそうなのか?近くにあったスポーツがフットボールで、住んでいた場所がたまたまロンドンだったという理由だけではないのか。好きになる対象がフットボールでなくてもよいし、ましてやチェルシーでなければならない理由はない。僕は、このことは断言してもよいのだが、フットボールとフーリガンの間には、必要性や必然性で結びついた因果関係は何もないと思っている。

しばしばフットボールがフーリガンを生みだしているように捉えられるのだが、決してそんなことはない。フーリガンがフットボールを利用している、という考えが一般化している。僕はこの映画では、主人公がある事件をキッカケに「ラグビー」のフーリガンに転向してしまう。

つまり実態はそういうものなのだ。「血は立ったまま眠っている」。このフレーズは、暴力で犠牲になった尊い命に対してささげたい。こうしたイギリスの報われない魂は、スタジアムでいつも「血は立ったまま眠っている」のであろう。

川本梅花

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