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川本梅花 フットボールタクティクス

【ノンフィクション】ルーマニアの地で日本代表を目指した男【無料記事】川本梅花アーカイブ #瀬戸貴幸 明日の扉を開くために今日を生きる

瀬戸貴幸、明日の扉を開くために今日を生きる

瀬戸貴幸が日本に帰ってくる。彼はルーマニアでプレーしていたが、移籍先をヴァンフォーレ甲府に決めたというニュース記事を見た。

ルーマニアにいた瀬戸を取材したのは2011年のことだった。あれから約7年が経とうとしている。あの頃の彼は、UEFAチャンピオンズリーグ(CL)に出場することを目指し、それを足がかりに日本代表のユニホームを着ることを夢見ていた。その後、所属クラブがCLに出場して得点を奪うなどの活躍を見せる。日本代表入りの夢は実現していないが、32歳の瀬戸は、欧州の中でプレーする日本人選手として、大きな存在感を示してきた。

そんな彼のプレーを、Jリーグで目撃できるかもしれない。以下に掲載するノンフィクションを読んでいただければ、瀬戸というサッカー選手がどんな人間なのか、うかがい知れると思う。

喧嘩から生まれた親近感

2007年の6月、瀬戸貴幸は、トライアウトを受けるためにルーマニアに渡る。クラブは、3部リーグのCSM・FCプロイェシュティだった。トライアウトに合格した彼は、開幕戦でいきなりスタメン起用されてチームが1-0で勝つ。チームを勝利に導いたのは、彼のリーグ戦初得点である。しかし、続く2試合目以降から数試合はコンディション調整に失敗して得点から遠ざかっていた。

そうした中、チームの生え抜きで32歳のベテラン選手・ロミッカが、試合後にロッカールームで着替えをする瀬戸に、わざと聞こえるように嫌みを言い出した。

「前半は、あいつがいたからチームがうまく行かなかったんだよ」

瀬戸は「彼が僕のことを言ってるんだな」とすぐに気付く。しかし、あえて聞こえないそぶりをした。それでも瀬戸に対するロミッカの非難はやまなかった。「全く、日本人なんか入れるからだよ。あいつを早くスタメンから外せよ」。ロミッカは誰に言うわけではなく、1人でがなり立てた。

「ルーマニアでの生活も始まったばかりで、コンディションも整わなかった。だからまだ好調と不調の波もあって。リーグ戦の開幕試合でゴールを決めてから数試合、点が取れなくなりました。ポジションもトップ下から左のサイドハーフに代えられた。ある試合で0-0の中、前半途中で代えられてしまって。僕がベンチに下がってからチームが得点を入れて2-0で試合には勝った。試合後にロミッカが、『前半あいつがいたからチームがうまく行かなかった』と僕に聞こえるように言っていたのです。聞こえてはいたけど無視しました」

そして、試合翌日の練習中に事件が起こる。ミニゲームの最中、瀬戸は、嫌みを言っていたロミッカの足を狙って削りに行った。もちろん、瀬戸の行為は褒められたものではない。しかし、たった1人での欧州生活、孤独とルーマニアサッカーになかなか慣れられない自分へのいら立ちが募っていたのは事実だった。

プレーに怒ったロミッカは「この野郎」と言って、今度は逆に瀬戸に思いっきり足下を狙ってスライディングを仕掛けてくる。転倒した瀬戸もロミッカのラフプレーに怒りが込み上げてくる。2人は、お互いの顔を近づけてつかみ合いになった。2人が小競り合いをしていると、慌ててチームメイトとアシスタントコーチが止めに入る。たまたま監督が不在だったため、事態は穏便に済まされた。

「ロミッカともめた翌日の練習で、彼はルーマニア語でブツブツ何か言いながらプレーしていたので、僕は日本語で『アホか』と文句を言ったりしました。周りの選手は、ルーマニア語と日本語の掛け合いに『お前ら何やってるの!?』みたいな感じになって、笑っている選手も出てきました。その時は僕も彼も、互いに謝ることはしませんでした。でもそれ以来、なんだか彼に親近感を持つようになった。彼も僕が感じたような親しみを持ったみたいです」

数日後にロミッカが瀬戸に話し掛けてくる。「お前、いつ点を取るんだ?」。「今週の試合で点を取るよ」。瀬戸が覚えたてのつたないルーマニア語で言い返す。「ハハハ」と笑いながらロミッカは瀬戸に人さし指を出して左右に振る。「今週は試合ないぞ」と言って、瀬戸の肩をポーンと軽く叩いた。

バックパスなら俺でもできるよ

試合に使われ続けていた瀬戸だったが、プレーにはどこか、しっくりと行かないままでいた。そんなある日、試合翌日の練習中に、スポーツディレクター(クラブの強化部長)が瀬戸に歩み寄ってくる。

「バックパスだったら俺でもできるよ」

彼のひと言に瀬戸は「あっ、そうか」と思う。瀬戸は次のように振り返った。

「ルーマニアに行く前は、テクニシャンが多くてサッカーがうまい選手が集まっていると思ったのですが、こっちに来てみたら、全く違うということに気付きました。ルーマニアのサッカーは、バックパスを嫌うんですよ。相手にプレッシャーを掛けられても簡単にボールを失わない。選手間の当たりが激しいし厳しい。僕はその試合でセンターハーフ(CH)をやっていたのですが、前にボールを出せない時に後ろにいるDFにボールを下げ、組み立て直そうとしました。相手がプレスに来たから後ろにボールを下げるというパスを無意識にやっていた。それが消極的に見えたのでしょうし、僕もミスを恐れていた部分もあった。だから、スポーツディレクターに『バックパスだったら俺でもできるよ』と言われて、『もっとチャレンジしなければならない。ミスをしてもいいから前に前にというプレーをしないと。それができなければ、この国ではチャンスがなくなるな』と思いました」

スポーツディレクターの何気ないひと言からヒントを得た瀬戸は、その2007-08シーズンを33試合出場して7得点を挙げ、チームの2部昇格に貢献する。2008-09シーズンで、瀬戸のポジションも本格的に中盤を仕切るCHになった。リーグ戦では27試合出場して1得点を取り、チームをけん引して1部昇格を果たす。

そして、2009-10シーズンは、34試合に出場して3得点。続く2010-11シーズンは、33試合で3得点。押しも押されもしない、チームの中心選手に成長した。成績の数字の羅列だけを見れば、順調に一歩一歩階段を上っていったように思える。しかし実際は、ルーマニア語の習得から始まり、東欧の生活習慣や日本とのサッカーの差異などに苦しみ、チームに加入して最初の頃は何度かレギュラーを外され、サテライトに行かされたさえもあった。

そうしたさまざまな苦難を、瀬戸はどのように乗り越えてきたのだろうか?

畑のようなグラウンドでもがむしゃらに

瀬戸の兄は、高校を卒業してブラジルにサッカー修行に行ったことがあった。そうした兄の行動に影響されて、瀬戸も愛知県立熱田高等学校を卒業してからブラジルに渡る。その時に兄の知人の日本人代理人と知り合う。ルーマニアのクラブとのプロ契約という話は、その代理人からのオファーだった。ルーマニアに足を踏み入れて最初に目にしたのは、畑が一面に広がっている中に、ポツンとサッカースタジアムが建設されている風景だった。

「畑というか……畑そのものなんですが、畑しかない場所の真ん中にスタジアムを作るって『すごいことだな』と思ったのが印象にあります。パッと見て『何これ?』という感じですよね。プロイェシュティのトライアウトには、10日間で総数50人くらいいました。ほとんどがルーマニア人ですよ。日本人は僕のほかに2人いました。初めの1週間は、ミニゲームをやったりフィジカルの強さを見られたりしました。次に、山沿いにある場所にキャンプに行きました。ミニゲームではとにかく点を取ることを意識してプレーしたんです。最終的に20人が残って、日本人は僕だけになりました。キャンプが終わって、1週間後にカップ戦を控えていて、『もうそろそろ契約があっても、いいんじゃないか』と思ってスポーツディレクターに聞いたら、あっさり『契約するよ』と言われて、合否の結果に緊張して過ごしていたので、少し拍子抜けしました」

2008年に2部リーグに昇格したチームの中で、調子を崩して試合に出られなかった時があった。コンディション調整で苦しむ瀬戸に、チームは「サテライト行き」を命じる。

「サテライトと言っても、16・17歳の子で構成されているチーム。日本でいうところの地域リーグレベルです。僕以外にルーマニア人が2人、サテライトに送られた。ボロボロのマイクロバスに乗せられて着いた会場は、ボコボコの畑でした。畑の上にゴールマウスが置かれているだけ。グラウンドと呼ばれるところのすぐ外に牛が放し飼いになっている。境界がないので、牛のふんがグラウンドに転がっている状態。一緒に来た2人は『こんなところで、やってられるか!』と言い、手を抜いてプレーしていました。僕は、彼らの姿勢を見て『自分はここでも、しっかりやらなきゃ』と思い、とにかくがむしゃらにプレーしました。『絶対こんなところで終われない。自分に負けていられない』と一生懸命やった記憶があります。そうしたら、サテライトの監督が『あいつはあの環境でもしっかりやっていたぞ』とトップの監督に伝えたようです。ちょうどカップ戦を控えていて、その前の試合でキャプテンだった選手がケガをして長期離脱することになった。たまたま彼は、僕と同じポジションで、彼の代役で試合に使ってもられました。それから試合に出られるようになりました」

ルーマニアのプロリーグは3つある。3部リーグは18チームが所属して6グループに分かれる。各グループの1位が2部に自動昇格できる。2位が、2部リーグの下位チームと入れ替え戦を行う。2部リーグは18チームがあって2グループになる。そして1部リーグは18チームで構成されていた。

当時3部リーグにいたCSM・FCプロイェシュティでプレーすることになった瀬戸は、リーグ戦前に開催されたカップ戦で、いきなりスタメン出場した。スターティングメンバーの発表は試合直前だが、前日のフォーメーション練習でメンバーになっていたため、ある程度は予測できたし、心の準備もなされていた。彼のポジションはFWだ。彼はそこでチーム加入後初得点を決めることになる。

3部リーグの選手となった瀬戸の月給は、日本円で約3万円からスタートした。生活そのものは、寮に住んでいて食事が付いていたので、なんとかやりくりできた。2部リーグに昇格した時には、3倍強の約10万円。1部リーグでは約40万円に上がった。2010年サウジアラビアの名門クラブのアル・ナスルから巨額の移籍金を積まれたオファーを受ける。

「新聞で知ったのですが、ディナモ・ブカレスト(ルーマニア1部リーグの強豪クラブ)が獲得するとか、サウジアラビアからのオファーとか、びっくりすることが続きましたね」と笑いながら話す。このように、ルーマニア1部リーグのFCアストラ・プロイェシュティ()での活躍が注目されるようになった。

それでは彼の、サッカー選手として原点は、どこで養われたのであろうか。

クラブはリーグ昇格ごとに名称を一部変更。2018年現在はAFCアストラ・ジュルジュとなっている。

大学進学を捨てて、ブラジルサッカーに挑戦

瀬戸がサッカーを始めたのは幼稚園の時だった。実家の近くのサッカー少年団アクアFCに2歳年上の兄が入っていたことがキッカケになっている。

「兄に影響されてサッカーを始めました。小学校の部活では野球をやって、野球とサッカーを並行してやっていました」

本格的にサッカーに打ち込んだのは、小学校5年生になって名古屋FCに加入してからだった。最初のポジションはセンターバック(CB)。愛知県のトレセンに選ばれたこともある。小学校6年生になって、右サイドハーフやトップ下にコンバートされる。

「クラブの監督の判断で、CBやスイーパーをやらされました。僕自身もその時は、前めのポジションでやりたい、というのはなかった。その頃から周りのみんなは身長が伸びましたが、僕はあまり大きくならず、中学校入学の時でも149センチしかなかった」

名古屋FCは、全国的に名前が知られるクラブだった。高円宮杯で全国3位になるなど、クラブユース選手権でも愛知県1位で通過していた。しかし、中学時代の瀬戸は、身長が低かったこともあり、サブメンバーだった。

高校進学は、両親には中京高等学校を勧められる。しかし「中京(高校)の監督が『怖い』とか『スパルタ』という噂を耳にしていたので、『僕には合わないな』と思って、公立高校で一番強いと言われていた熱田高校に決めました」と振り返る。

部員が100人くらいのサッカー部。「テクニックは名古屋FCでもうまい部類だったので、『やっていける』という自信がありました。でも、高校に入っても身長が160センチなかったので、フィジカル的にかなわなかった部分がありました」と述べる。

高校2年生になってもBチームメンバーという状況は変わらなかった。瀬戸に転機が訪れたのは、高校2年の夏を前にした時だった。急激に身長が伸びて180センチ近くになる。

「体が大きくなって、自分でも驚きましたし、ボールを奪われなくなりました。上の視界から相手を見下げるというか。それまでは背が低いから、下から上を見上げてプレーしていたこともあり、視野も広くなりました。前にボールが出しやすくなり、ボールをキープして、サイドのタッチラインに張ってからドリブルで突っかけたり、味方にパスを出したり、無理なくできるようになった。もともと僕は足が長いこともあり、余計にボールを相手に奪われなくなりました。世界が変わったと思いました。そうしたら、高校2年の夏の選手権(全国サッカー高校選手権大会)の県予選の時にレギュラーに抜擢されてトップ下で出場できました。高校3年の時、チームは2回戦で(名古屋市立)名東高校に0-2で簡単に負けてしまいました。みんな悔しがって泣いていたのですが、僕は、『これからもサッカー人生が続いていくんだ』と思って感傷的にはならなかった」

「これからもサッカー人生が続く」と思った瀬戸は、高校を卒業してブラジルへのサッカー留学を決心する。先にブラジルへ行っていた兄からは、毎月手紙が送られてきた。その中に「ブラジルはサッカーのうまい人が本当に多い。町にいるおじさんでもサッカーが上手なんだよ。食事は大変だ。食べ物がおいしくない。いろいろと厳しい生活なんだけど、なんとやっている。お前も、高校を卒業したらブラジルに来ないか?」という文面が書かれてあった。

大学進学に関しては、「母は、浜松大学や静岡産業大学に行ってサッカーを続けてほしかったようで、その時に少しだけ大学進学を考えたんですが」と話す。しかし、子供の頃から兄の背中を追いかけてサッカーをやってきた瀬戸にとって、ブラジル挑戦は必然だったのかもしれない。

2004年にブラジルへ渡った瀬戸は、1年半という時間を過ごす。彼と入れ替わりで、兄は日本に帰国する。そして瀬戸は、アヴェイFC(サンタカタリーナ州)やコリンチャンス(サンパウロ州)などいくつかのクラブの練習生となる。

「ブラジルに行って最初にクラブ見学をさせてもらって、練習を見たら『こいつら、あんまりうまくないんじゃないか』と思いました。しかし、クラブのグラウンドはデコボコで、実際に彼らと一緒にプレーしたら、コンディションが悪いピッチの上でもボール扱いがうまくて驚いた。初めにお世話になったクラブには11カ月いました。ただ、プロ契約が勝ち取れずに練習参加という形でした。両親から仕送りをしてもらっていたのですが、物価が安くて月1万円あれば生活できました。寮生活をさせてもらっていて、3食と夜食が付いていました。だから後は、サッカーをするだけの環境でした」

最初に練習生になったチームがクリスマス休暇に入ったので、代理人に相談して正月以降でも練習参加できるチームを探してもらう。そこで練習生となったのが、名門コリンチャンスだった。ちょうど、のちにアルゼンチン代表になったカルロス テベス(2018年現在、ボカ・ジュニアーズに所属)らとともに2カ月を過ごす。

さすがにブラジルのトップチームのクラブは環境がよく、グラウンドの設備面や食事面も充実していた。トップチームの練習に2回ほど参加することができた。しかし瀬戸は、自分の実力と周りの選手のレベルの違いに愕然として自信を失う日々を送っていた。

「練習に参加して、ボールは回ってくるのですが、僕のところにはやってこない。やっとボールをもらってもパスミスをしたり、ドリブルして突っかけても止められたりしたら、全くボールが来なくなりました。なんにもできなかった。コリンチャンスの時は、みんながうまく、『ああ、これではダメだ』と落ち込んだ時もありました」

自信を喪失しそうな瀬戸の気持ちを和らげたのは、ブラジルの市井の人々だった。アヴェイFCでは、アパートに選手と2人で住んでいた。スタジアムまで行く道の途中にビーチサッカー場があった。そこではアパートの近所の年配者や若者たちがはだしでサッカーをやっていた。

ある日、瀬戸は彼らに誘われてビーチサッカーをやることにした。試合中に、その町で一番うまいと言われる若者と一対一になる場面があった。瀬戸は、股抜きをしてその若者を置き去りにした。ドリブルで抜いていく瀬戸のプレーを見ていた観客たちが、一斉に「フウー」と言って奇声を上げて瀬戸のプレーを称賛した。

「なんだか自分のプレーが認められた感じがして、『もう少し頑張ってみようか』と思えました」

ブラジルの公用語であるポルトガル語は、毎日地道に3時間ほど勉強をした。半年経つと日常会話では苦労しなくなる。言葉が話せるようになると、チームメイトから彼らの家に招かれるようになるほど、ブラジルの地にとけ込んでいった。

浪人生活を乗り越えて新天地へ

瀬戸は、もう少しチャレンジしたかったが、滞在許可書の期限が切れるため「いいキッカケかもしれない」と考えて日本に戻ることにした。帰国後は、実家の近くのスーパーでアルバイトをする。品物の出し入れなどをする仕事だった。ブラジルから先に戻っていた兄は、父とともに家業を手伝うことになった。

兄からは「コンディションが落ちないうちに、どこかトライアウトに行ってみれば」と助言されたが、探してもなかなか見つからない。ボールを蹴る感覚を失いたくないので、フットサルのチームである愛知ニューウェーブスや名古屋市リーグのOSFCに籍を置いた。アルバイトが終わって、1人で黙々と練習する。実家の前の道路で日が暮れてからジョギングや腹筋をやった。

「近所の人は、『あいつ何やってんの?』という感じで見ていたと思います。周りからも『就職した方がいいんじゃないか?』とか『もうプロサッカー選手になるなんて諦めたら?』と言う人もいました」

「そろそろここが潮時かな」とどこか自信なさげに振る舞う瀬戸の姿を見て、のちに妻となる恋人の智美が言葉を掛ける。

「自分の好きなこと以外のことをしても、続けていけないんじゃないの?」

「そうだよな」と、思った瀬戸にやってきたのが、日本人代理人からの「ルーマニアのトライアウトを受けてみないか?」という朗報だった。

瀬戸は、2011-12年シーズンを迎えて、ルーマニアでのクラブ生活も5年目に入る。今季から腕にはキャプテンマークを巻く頼れる存在となった。そんな彼に、「今後の目標は?」と尋ねると、「サッカーがメジャーな国に移籍してCLやヨーロッパリーグ(EL)に出場する。そして、W杯で日本代表に呼ばれることです」と高らかに語る彼の言葉には、「必ずかなえてみせる」という熱い魂の叫びを感じずにはいられない。

川本梅花

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