川本梅花 フットボールタクティクス

【コラム】 #プラティニ の言葉から始まった旅【無料記事】『サッカーの敵』(サイモン クーパー著/白水社)

この記事の目次

本書のストーリー

はじめに

プラティニの言葉から始まった旅

プロテスタントの「行動的禁欲」の意味

読者よりも先に、出口から抜け出していったクーパー

本書のストーリー

サッカージャーナリストのサイモン クーパーは、東欧・欧州・アフリカ・南米・北米など9カ月にわたり22カ国を旅して、サッカーとそれに関わる人々を徹底的に取材した。彼がそこで見たものは、試合を操作する大統領やクラブを食い物にするマフィア、カソリックとプロテスタントの宗教対立、内戦中に行われた敵同士の戦いだった。この本はサッカーのアンダーワールドを暴く、驚愕のノンフィクション作品と言われている。

はじめに

「新たな道を通って存在から脱出しなければならない」(『逃走論』)と述べたのは、哲学者エマニュエル レヴィナスである。哲学者の言葉は難しい。なぜ、こんなにも難解なのか。それは、人がこれ以上は考えられないと思われる限界を超えようとして、肉体も精神もとことんまで追いつめて考えて、そこから得たものを言葉にするからだ。倫理学と存在論という学問の中で、「他者」という哲学的なテーマを突き詰めて思索し続けたレヴィナス(1906-1995)は、現代思想の中でも難解さにおいて右に出る者はいない。

彼は、この世界での人間の存在理由を、哲学的にイヤと言うほど考えた人だ。僕たちの日常は、レヴィナスが思索したような難しいことを考えなくとも、なんら支障なく生活できるように思える。ならば哲学者は、どうして難しいことを考え続けて、考えることを止めないのだろうか。それは、物事を限界まで突き詰めて考えなければ見えないこともあるからだ。

プラティニの言葉から始まった旅

サイモン クーパーは、表舞台ではスタジアムに集まるファンやプレーヤーを取材するために、また裏舞台ではフットボールに群がる政治家やマフィアに会うために、世界中のスタジアムを巡った。その取材の結果、彼にしか見えないものが見えてきた。そのことが『サッカーの敵』の中で綴られている。

クーパーは、この本で「フットボールは政治に影響をおよぼし、それはいつもそうだった」と論じている。彼は、フットボールのフーリガンについては十分すぎるほど書かれているが、それ以外のファンの方がはるかに危険な存在で、そのことはあまり語られていないと言う。「それ以外のファン」とは、政治家やマフィアたちのことを指す。そして、そんなやつらとは関係ないと思っている僕たち自身は、この本を読みすすめていくに連れて、本の中に登場する国々に比べれば、日本のフットボールは、純粋で汚されていないことに気づかされる。別の見方をすれば、発展途上で、まだ成熟していないとも言える。

彼は、なぜ何カ国もフットボールの旅に出掛けたのか。それは、フランスの英雄ミッシェル プラティニが『レキップ』誌で、「フットボールのチームは文化のあり方を表現している」と言ったことがキッカケになったと述べる。クーパーは、プラティニが語った内容が、本当かどうか確かめたくなったと言う。クーパーの旅は、その国のサッカーが、その国の文化を本当に表しているのかどうか、を探ることから始まったのだ。

プロテスタントの「行動的禁欲」の意味

僕たちはこれから、クーパーが歩いた場所を少しだけのぞくことにしよう。僕たちが訪ねる場所は、スコットランドのグラスゴーである。この街は、1872年にスコットランド対イングランドというサッカー史上初めての国際試合が行われたことでも知られる。またグラスゴーには、中村俊輔が所属していたセルティックと永遠のライバルであるレンジャーズがある。両チームの戦いは、「オールド・ファーム」と呼ばれ、世界でも有数のダービーマッチが行われる。

両チームの対立の歴史には、はっきりとした宗教的対立が存在する。セルティックはカソリック系のファンを持っていて、レンジャーズはプロテスタント系のファンによって支持されている。カソリックとプロテスタントの対立は、両者の経済的格差にも現れている。実際にオールド・ファームでは、レンジャーズファンがセルティックファンに対して、「おまえらは貧乏人」とコールする、とクーパーは話す。

社会学者マックス ウェーバー(1864-1920)は、彼の著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、西洋近代の資本主義を発展させた原動力として2つのものを挙げる。それは、カルヴィニズムによる宗教倫理から産まれた、世俗内の禁欲と生活の合理化であるとした。彼によれば、プロテスタントとカソリックを対比した場合、禁欲的生活を勧めるプロテスタントの方が、カソリックより経済的繁栄をもたらすとされた。日本語で「禁欲」といえば、欲望を抑え、理性や信仰によって生活しようとする様をイメージするだろう。しかしウェーバーが言う「禁欲」とは、「行動的禁欲」を意味する。人が目的達成のために、それ以外の欲望は全て忘れ去って、ひたすら励むという行動様式のことを指している。

ある日、クーパーはコリン グラスという保険代理人に会う。グラスはプロテスタントで、もちろんレンジャーズファンだ。グラスは「確かにカソリックへの差別はある」と語る。彼は続けて、警察署長が「俺は2人(のカソリック)を昇進させてやったが、1人はそう悪くもなかったね」と発言していたと打ち明ける。一方、セルティックにはカソリックへの根強い信仰が持たれる。2005年12月にマンチェスター・ユナイテッドの主将を務めたロイ キーンが、セルティックに移籍してきた。彼はこの移籍を「少年時代からセルティックパークに立ちたいという夢の実現」であり、「アイルランド少年にとってセルティックは憧れの存在」であると話した。

読者よりも先に、出口から抜け出していったクーパー

クーパーは取材中あった出来事を淡々と綴っていく。取材が進むに連れて、彼はその国のサッカーがその国の文化を表していることを実感する。やがて、彼は読者に対して何か新しい知識を与えて教え導こう、とはしなくなる。つまり彼はこの本の中で何も啓蒙していないのだ。

作者が、本の結論を書く場合、読者への提供の仕方として主として2つのパターンがある。1つは、読者に結論という出口をきちんと作って、読者がその本から出て行ける出口を設けてあげるパターン。もう1つは、結論を読者にゆだね、本から出ていく出口を読者自身に考えさせる、というものだ。

クーパーの場合は、今後の彼自身のジャーナリストとしての姿勢を示している。つまり、ジャーナリストは、まず現地での取材というフィールドワークがあり、そこで得た確信的な情報を発信して、彼自身はそこにとどまらず、次の取材の場所へと出口を作って出掛けていく、ということである。クーパーは、読者に啓蒙しないというやり方で出口を作って、読者よりも先に、彼がこの本からどこかに抜け出していったように思えた。

川本梅花

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