川本梅花 フットボールタクティクス

【ノンフィクション】#村瀬勇太 もう一度自分自身を取り戻すためにJの舞台へ【無料記事】#ヴァンラーレ八戸 @vanraure

村瀬勇太 もう一度自分自身を取り戻すためにJの舞台へ

村瀬勇太と最初に会ったのは2015年の夏だった。

「なんで君がここにいるの?」

私は、素直な気持ちを彼に伝えた。

「なんで君がここにいるの?」は、失礼な言葉だったのだろうか。いまでも、時々考えることがある。もしそれが失礼な言葉だったなら、それはいったい誰に対してなのか。ラインメール青森のクラブやサポーターに対してなのか。それとも村瀬本人に対してなのか。何度考えても、やっぱり失礼な言葉には思えない。なぜならば、彼のプレーを見れば誰だって「どうして君はここにいるの?」と問うてしまうだろうからだ。

彼は当時、東北社会人1部リーグのラインメール青森FCに所属していた。村瀬の名前もプレーも、以前から知っていた。2007年の全国高等学校サッカー選手権大会において、流通経済大学附属柏高校の中心選手としての活躍は衝撃的だった。もちろん高校を卒業してからでも大学に進学してからでも、このまま順調に成長していけば、Jリーグクラブから声が掛かるだろうと思っていた。案の定、当時J2リーグの松本山雅FCから誘いの声が掛かった。

しかし次第に、村瀬勇太の名前は霧の中に隠されて見えなくなっていった。

目次

なぜ、村瀬勇太を書くのか
松本山雅FCでの苦難の1年間
独白:自分にとってサッカーが、自分の中心であることですね
独白:Jリーグの試合に出て記録を残したい

村瀬勇太 もう一度自分自身を取り戻すためにJの舞台へ

なぜ、村瀬勇太を書くのか

村瀬のサッカー履歴書を辿れば、J2リーグ→JFL→東北社会人1部→JFL→J3リーグとなる。流経大付属柏3年生の時、高円宮杯全日本ユースサッカー選手権大会と全国高等学校サッカー選手権の2冠獲得に貢献する。高校卒業後、流通経済大学に進学し、U-19日本代表として欧州遠征の参加メンバーにもなった。大学での活躍が認められ、松本山雅FCに加入する。しかし、松本に1年間在籍した後、当時JFL(日本フットボールリーグ)の藤枝MYFCに期限付き移籍。そしてラインメール青森FCに移籍してくる。青森では、東北社会人1部リーグを2年間経験してJFLに昇格してさらに2年間を過ごす。当時の監督だった葛野昌宏(現ヴァンラーレ八戸強化部長)の退任と同時に、JFLの奈良クラブに移籍する。奈良では2年間プレーして、2019年12月12日に八戸へ加わることになった。

2020年に、村瀬勇太が再び、Jリーグの舞台に立つことになる。1年間でJリーグの舞台を下されて、流浪の旅人となった30歳のサッカー選手がJリーグに戻ってくる。村瀬は、これまでどんな経験を積んできたのか。そのことを書き記すことが、必要だと思った。なぜなら、彼がもう一度自分自身を取り戻して、私がかつて見たことのある「美しい彼のプレー」を再現してほしいからだ。そのために、私は2015年の彼の声をこうして掘り起こすのである。

物語は、当時J2の松本時代に遡る。

松本山雅FCでの苦難の1年間

「もっと球際で強く行けよ。何度も言ってるだろう。なんで戦わないんだ!」

コーチの声がグラウンドに響き渡る。そして、いつもの決まり文句が続く。

「おまえな、やる気あんのか!」

コーチの声は、右の耳から入って左の耳へと抜けていく。「やる気はあるのか?」と聞かれれば、「やる気はあった」と答えるしかない。「そうさ、俺だってやる気はあったさ」と言葉をピッチに吐き捨てる。

松本に加入した当時は、「俺はプロでも十分にやっていける」という自信があった。加入して1年間が経とうとしていた1人のサッカー選手には、自信はただの過信だったことを思い知るだけだった。この苦難から抜け出したい。もがけばもがくほど、自由に動けた体は金縛りにでもあったように不自由さを感じてしまう。相手から簡単に奪えたボールも、全く奪えなくなってしまった。パスだってそうだ。ノールックでどんなところにもスパッと通せたパスが、いまでは簡単にインターセプトされてしまう。こんなはずじゃなかった。何度も何度も自問自答した。この現実は何かの間違いだ。ちょっとだけ歯車が噛み合わなくなっただけだ。本当の自分はこんなものじゃない。そうやって繰り返し自分に問いかけていくうちに、問いかける自分の声さえも薄れていくようになった。次第に、自分への問いかけさえ止めてしまった。

「俺、ふてくされていたんです」

村瀬勇太が、ポツリと呟いた。

独白:自分にとってサッカーが、自分の中心であることですね

流経大から山雅に行ったその時は、試合にも出られず、メンバーにも入れずでした。1年で終わって、当時JFLだった藤枝MYFCへレンタルに出されました。そこで当時監督だった斉藤俊秀(現サッカー日本代表コーチ)さんと出会います。藤枝では、試合に出たり出なかったりでしたが、自分自身は成長できたという実感がありました。

その後で、タイのクラブチームに挑戦して、契約寸前まで行ったのですが、結局はダメで日本に帰ってきました。すぐに俊秀さんに会いに行って相談したら、「こういうチームがあるよ」と言われてラインメール青森を紹介されました。「Jリーグを目指しているチームだから」って言われました。自分はそこで成長して、そこでチームの力も引き上げようと考えて選びました。

松本では、正直に言えば、チームに入った瞬間は、試合に絡めると思っていました。けど現実は違っていました。自分が若かったと思うのですが、腐って……。これまでの人生で、自分が試合に出られない経験がなかったので。いま思うと、メンタルというか、気持ちの強さ、絶対出てやろうっていう気持ちが「起きなかった」と言えばいいのか。試合に出られないという経験をしたことがなかった。自分の中で、なんていうのか、納得は行ってなかったのですけど、いままで経験したことがなかったことが起きてしまって、ただただ1年過ぎたっていう感じでしたね。

試合に出られないから、態度に出てしまったことがありました。公式戦に出ているメンバーと出ていないメンバーでは、練習メニューが別です。対人プレーとか1対1とかをやらされる。コーチに「これをやれ」と言われると、ふてくされて、なんていうんですかね、コーチが求めていることを(あえて)やらないこともありました。

松本というチームとしては、対人に対して球際で負けないっていうスタイルなので、自分はその時、そういうのが苦手で、そういうのを口酸っぱく言われ続けて、でも、それをやらなかった。ふてくされたっていうか。コーチによく言われたのは「なぜ戦わないんだ」。自分では「そういう感じでボールがここに来るだろう」と思うのです。なんて言うのですか、「そんなガツガツ行かなくても取れるでしょ、2歩3歩先を読んでいけば」と。自分が考える「これでいいんじゃないか」って思ってましたね。

コーチが、「なんでそういうの分からないんだよ」って言ってくる。だんだんフラストレーションになってくる。で、試合にも使われなくなってくる。その悪循環にはまってしまった感じです。俺はボランチのポジションなので、味方の選手にコーチングしないとならない。でも自分は若いし、ベテランの選手にコーチングできるわけない。ガンガン言えるわけがない。前面に出すタイプではないですし。その時は、たぶん、本当に経験したことがない日々でした。ただ一日一日が、練習行って帰ってきてっていう生活で、いまの自分が正しいのか間違っているのかもわからない状態でした。

大学のコーチの大平正軌さんが気に掛けてくれて電話をしてくれました。守備の面でのアドバイスをもらったりしました。昔から俺がガツガツ行くタイプじゃないから、山雅のガツガツ行くスタイルを知ってたから、大平さんが「だからもっと球際とか対人とかってガツガツ行けよ」って言ってくれました。でも行けなかった。山雅のスタッフによく言われたのは「うまいんだけどな」。その部分ができていれば、試合に絡めたんだろうとは思いますけどね。

独白:Jリーグの試合に出て記録を残したい

藤枝では、21試合に出させてもらって、スタメンで試合に絡めた分、自分では成長できたと思います。山雅では試合に出られなくて、出られないという経験が、俺をパニック状態にさせたのです。日々のストレスがすごくて、どうしたらいいのか全く分からなかったのが、藤枝に行って、運動量が変わったと思います。トップ下やボランチもやらせてもらって、もともと運動量が少ないって言われていたので、意識して運動量を多くした、ということはありました。

藤枝では、ふてくされるようなことは、なかったですね。メンバーを外されても、斉藤さんは「頑張ってればチャンスをくれる人」だったので。藤枝は午後5時に練習が終わる。嫁もサッカーをやっていたので、午後5時から一緒に練習しました。しばらくして斉藤さんが取材を受けにピッチ脇へ来ました。俺は、メンバーに入ってなかったから練習していた。その次の週からメンバーに入れてくれた。そういうところを見ていたのかなと思って。「頑張ってるな」って言ってもらった時はうれしかった。

藤枝でもそんなに目立った結果を残せていなかったです。「レンタル期間満了でアウトか。それは当たり前だな」って覚悟していました。そうしたら藤枝に残れるチャンスはあったのですが、思っていた契約と違ったので、タイに挑戦してみようと考えました。1週間トライアウトをして「様子を見よう」という話になり、1カ月間プレーすることになったのですが契約には至らず、でした。その後、斉藤さんにラインメール青森の話を聞いて、青森へ来ました。

タイミング的にも良かった、というのはあります。探してもどこもなかったので、取りあえず1年間はやろうと決めました。青森に来てみて、冬の時期ですね、正直言って、スポーツ選手としてはよくない環境です。雪も自分そんなに好きじゃない方ですし(笑)、雪の時期は相当にまいっています。室内で練習はやっていますが。でもクズ(葛野昌宏)さんが監督をしてくれて、自分を中心に考えてくれてるサッカーだなと思ってます。FKも俺が蹴れるし、PKも蹴れて面白かった。ラインメールでは、アルバイトをしている選手もいます。自分はバイトをしていないので、その分サッカーに打ち込める時間が長い。だから人よりもトレーニングをしなければならないと思っています。

プレーヤーとしては、Jリーグで1回も試合に出たことがない。だから記録もない。試合に出ているという形でJリーグの試合に出て記録を残したいですね。サッカーをやっている限りは、目標としてそう思います。結果を残せば、誰かが見てくれてる。注目される日がきっとくるはずだと。

いまはサッカーをやっていて楽しいですね。遠征で、いろいろな地域とかに行けるんで。どんだけ楽しいかって言えば、高校時代並みに楽しいって感じですかね。負けてないですしね。俺は、チャレンジャーっていう気持ちでいつもやればいいと思っています。そんなに固くならないでやればいい。俺たちはチャレンジャーなんだって。

支えになった言葉ではないですけど、嫁が常に横にいるっていうか。自分がつらい時に
行動とかを支えてくれてたと思います。サッカーについて、常に話しています。嫁もサッカーをやってるので。「通じる」というか。自分の足りない部分とか、ディフェンスの部分とか、球際のところとかを「やりなさい」と言われたりしました(笑)。

俺の理想のサッカーは、サポーターが楽しいサッカー、なおかつ勝つサッカーです。プレーヤーとしては、自分個人で決定付けられるプレーを残せるかですね。自分のプレーは、ボールに関われるところ、長短のパスを出せるところ、チャンスメイクに関われるところ、そして、決定的な仕事をすること。自分たちがボールを持っていれば、守備の時間が短いじゃないですか。そして展開して自分たちがボールポゼッションして、前まで行って相手のゴール近くまで行ければ、守備をサボるわけではないですが、優勢に試合を運べますから。そういう風に、俺は考えていたんですけどね。いまの、このままのプレーを貫く感じです。いまから変えても難しいということもありますから。自分にとってサッカーは中心です。

以上は、村瀬勇太の独白で綴られている。この声は、2015年の夏の青森市内にあるラインメール青森のクラブで発せられたものだ。あれから5年が経とうとしている。村瀬と今度会う時は、ヴァンラーレ八戸のスタジアムになるのだろう。

川本梅花

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