川本梅花 フットボールタクティクス

【ノンフィクション】どんなに苦しいことがあっても僕らにはサッカーがある【無料記事】川本梅花アーカイブ #藤本主税 #久永辰徳 永遠のライバルにして無二の親友

プロになって母親を楽にさせたい

藤本の父親は、若くして亡くなった。原因は、交通事故。父親が死んだ時、藤本はまだ1歳にもなっていなかった。当然、父親との思い出は全くない。自分の家に父親という存在がいないことに気付くのも、ずっと後になってからだった。父親は生前、会社を経営していて船を買うなど、それなりに裕福な暮らしをしていたように見えた。

しかし、内情は少し違っていた。

父親が残したものは、難しい経営状況から生まれた多額の借金だった。藤本が、プロのサッカー選手になろうとした最初の動機は、プロになって父親の作った借金を返して、母親を楽にしてあげたいという思いから起こっている。

「小学校6年の時に、Jリーグができるんだと初めて知ったんです。それから僕は、自分がプロになるんだと決めました。藤本家は親父が死んだ時に、すごく借金を抱えていました。母は、姉と僕を育てながら借金を返さなくてはならなかった。だから、朝早くから夜遅くまで働いていました。昼は会社に勤めて夜は家政婦をして、家にいる時は縫い物をする。姉は姉で高校を卒業してすぐに働いて、家にお金を全部入れてくれた。姉は会社から帰ってきて晩ご飯を作ってくれる。そこに母が夜遅くに帰ってくるという毎日でした。そういう母と姉の姿を見ていて、父の借金を返すのは僕の役目だと思ったんです。そのためにはプロにならなければならないと」。

プロになるためには、スカウトの目に留まらねばならない。そのためにも全国大会へ出場できる高校を選択する必要があった。藤本が選んだ高校は、第1志望ではなかった。その頃の藤本は、選抜代表や日本代表に選ばれるなど、全国に名前が知られる中学生だった。そして、どういう環境のもとでサッカーをすればプロのサッカー選手になれるのか、という藤本なりのはっきりとしたビジョンを持っていた。

「僕が中学校3年生の時にずっと感じていたのは、自分を追い込んで行ける環境の中に身を置いて、しんどい練習をすれプロに行けるんだ、ということでした。当時、徳島県の高校サッカーは、徳島商業高校と徳島市立高校の二強でした。商業高校の方は、朝練もあれば夜遅くまでの練習もやっていました。走って、走って、というチームだった。市立高校の方は、サッカーは11人でやるもの、その11人が連係を取りながらゲームを作っていく、という戦術にのっとったサッカーをしていました。両校を比較してみると、迷うことなく商業高校でサッカーをしようと思っていました」

商業高校への進学を決心していた藤本だったが、実際に彼が入学したのはライバル校の市立高校であった。藤本が市立高校を選んだのには、とても大きな理由がある。1人の指導者との出会いが、選択させたのだ。その人は、のちに藤本の人生を導く、生涯の恩師となる人物。当時、市立高校サッカー部の監督であった逢坂利夫である。

中学3年の夏、逢坂は、藤本に会いたいとコンタクトを取ってきた。逢坂が藤本に会う目的は、当然、市立高校へのスカウティングにあった。「逢坂先生には、日本代表とか選抜に呼ばれた時に、何度か声を掛けもらっていたのですが、僕は市立高校に行く気はなかったので、何て断ろうかと母親に相談していました」と当時の心境を語る。

藤本は、逢坂にまず自分の境遇を話す。父親がいないこと。母親が女手ひとつで姉と自分を育ててくれたこと。大学に行くつもりはないこと。プロになることしか考えていないこと。プロになってお金を稼いで母親に早く楽をさせたいこと。そうした内容を淡々と語った。そして、藤本の話を聞いた逢坂は号泣する。「目の前で大人が泣く姿を見たのは、初めてだったのですごく驚きました。先生の涙は、僕ら家族の頑張りを認めてくれた証しなんだと感じました」

藤本の置かれた状況を把握した逢坂は、次の言葉を語りかける。

「私が主税を絶対にプロに行かせてあげる」

藤本は、逢坂のこの言葉を信じて、市立高校への入学を決心する。

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