川本梅花 フットボールタクティクス

【ノンフィクション】どんなに苦しいことがあっても僕らにはサッカーがある【無料記事】川本梅花アーカイブ #藤本主税 #久永辰徳 永遠のライバルにして無二の親友

1人でサッカーはできないんだよ

小学生の頃の藤本は、どんな子供だったのか。彼は「サッカーバカでした」と話す。子供の頃からドリブルが得意で、現在の彼の技術は、すでに小学生の時に身につけたものだ。

「母親に買ってもらったコーンを道路に並べて、ドリブルの練習をよく1人でしていました。そこは公園の前の道路だったので、街灯が照っていて夜も練習しました。右にまたいで左に抜くというドリブルが得意ですが、実はその時の練習で習得しました」

性格に関しては、「周りの空気を読めない子供でした」と話す。

「夏休みとか、みんなは遊びたい時間なのに、昼からランニングやろうよ、と言ってみんなを集めてひんしゅくを買ったりしました。いまでいう“KY”(空気が読めない人)的な存在でしたね」

「サッカーバカ」と言えるほどのひた向きな姿は、時に仲間からの反感も生んだ。

「小学校5年生の時に、いじめられたんですよ。無視というヤツですね。『主税を無視しようぜ』といったリーダーは、ずっと仲が良かったヤツです。だから、自分から彼に『なんでだ!どうして無視するんだ』と言いに行きました。直接彼と話すことは、すごく勇気がいることでしたが、言いに行って良かったと思っています。なぜなら、それ以後、彼とは大親友になれて、いまでも連絡していますから」

藤本という人間は、不思議な魅力を持っている。一本気で負けず嫌いで、仕切り家で、泣き虫で。そして人に対する愛情深さがある。彼の愛情深さは、人に愛されたことがある人間でなければ、持てない類いのものだろう。彼が持っている愛情は、母親や姉や友人、さらに逢坂という指導者から得たものなのだ。

市立高校に入学した藤本は、1年生ですぐに国体とインターハイの県予選にスタメンで使われた。しかし、インターハイを境に出場機会を失ってしまう。自分のプレーはチームにマッチしない。彼はそう実感していた。

「中学生の頃にやっていた天狗サッカーではないけれど、何でも自分でやろうとしていました。高校生だから相手も身体がでかくて、動きを押さえられていた。自分のプレーがあんまりうまく行かなかったので自信を喪失してしまって……。実は、何度もサッカーを辞めようと悩んでいました。なかなか市立のサッカーに馴染めなかった。このままじゃプロには行けない。そんな時に、先生やチームメイトが声を掛けてくれて……」

逢坂は、試合に出られない藤本にいつも言っていたことがある。

「1人でサッカーはできないんだよ。要は11人の中の1人なんだから。それを理解できなければ試合に出すことはできないぞ」

肉体的にも精神的にも追いつめられていた藤本に、逢坂は「頑張るな」と言う。ある時は「休め」。別の日には「はよ帰れ」。「力を抜け」。「疲れて練習しても意味がない」。そうした言葉を逢坂は語り続けた。

藤本が高校サッカーで学んだことは、「理にかなったことを、しなければならない」というものだ。

ある日の練習で、藤本の背後に3人の選手がプレッシャーを掛けてきた。そこで相手を背負ったままターンして抜こうとする。逢坂はゲームを止め、藤本を呼び寄せた。

「後ろに味方がいれば、そいつにパスをすればいい。FWが点を取れない時は、ゴールに近い選手が点を取ればいいんだよ」。

悩み苦しんでいた藤本にチャンスが訪れたのは、高校2年生の春、山口県の宇部市で行われた大会であった。その大会には、鹿児島実業高校などのサッカー強豪校も参加していた。宇部市は藤本にとって思い出深い土地だった。幼少の頃まで住んでいた生誕の地である。

「不思議な巡り合わせだったと思います。自分の出身地に戻って来てサッカーをやるというのは。それに、その時が初めてだったのですが、市立高校のサッカーに、自分のプレーが『バシッ』と合ったんですよ。その日からレギュラーになれた。ボールをもらったら簡単に味方に落とす。人を使ったり、人に使われたり。11人の中の1人になれたと、やっと実感できました。『ああ、先生がいつも話してくれていたものは、これだったんだ』と確信しました」

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