川本梅花 フットボールタクティクス

【ノンフィクション】どんなに苦しいことがあっても僕らにはサッカーがある【無料記事】川本梅花アーカイブ #藤本主税 #久永辰徳 永遠のライバルにして無二の親友

いつも声を掛けてくれた永遠の恩師

人と人の絆を結ぶ手段としてコミュニケーションがある。黙っていては、その人が何を考えているのかさえも分からない。どんなに素晴らしいことを考えていても、人は言葉に出して相手にメッセージを伝えないと理解できない。逢坂は、コミュニケーションがどれだけ大切であるのかを知っていた。だからどんな時でも彼は、藤本に言葉を投げかけたのだ。

「僕が元気がない時は、先生は、僕にいつでも声を掛けてくれました。それは、グラウンドの外でも内でもです。サッカーに関しては、とにかく戦術の話をしてくれました。そういえばテスト中、僕が早く答案を書き終えてじっとしていました。しばらくすると黒板のところに僕を手招きして、『この場面はこういうプレーが必要だからな』と戦術の話をしたこともありました」

逢坂は、「私が主税を絶対にプロに行かせてあげる」と言った言葉に責任を持つ。藤本が高校3年生になると、まずサンフレッチェ広島の練習に参加させる。残念ながら、その時はオファーが来なかった。次に、アビスパ福岡の強化部長を市立高校の練習に招いて藤本のプレーを見せる。そこで強化部長は、すぐに具体的なオファーを藤本に出す。小学6年生の子供が描いたプロのサッカー選手になるという夢が、この時に実現したのだ。

自宅から高校までの18キロの道のりを、足に2キロのおもりをつけて3年間続けた自転車通学の日。「サッカーの神様はサッカー以外のところでもちゃんと見ているんだから普段からきちんとしなさい」と母親に言われた日。お前は遠征費はいいよ、と言って逢坂が援助してくれた日。プロになって、給料は全て母親の口座に振り込んでもらって、父親の借金を返し終えた日。こうした思い出の日々は、逢坂との出会いによって、藤本の脳裏に深く刻まれるものとなったのだ。

藤本は「僕は先生の息子だと。先生は僕を絶対に見放さないと。そう確信して生きてきました」と話す。

藤本は、徳島県立阿波高校を最後に定年を迎えた逢坂の誕生日に、ビデオレターを贈った。そこには感謝に満ちた飾り気のない美しい言葉があった。

「逢坂先生がいなかったら、いまの僕はありません」

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