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【ノンフィクション】アキレス腱断裂から復帰して得たもの【無料記事】川本梅花アーカイブ #榎本達也

神戸との別れ、心の師との別れ

横浜FMから神戸に移籍してからの榎本は、2007年から2010年の4年間、神戸が残留争いに巻き込まれる中で必死にゴールマウスを守ってきた。そうした中で、2010年に二度の退場処分を経験してしまう。一度目は、J1第20節・モンテディオ山形戦だった。

「山形戦では僕と味方DFの間にボールを出されて、僕がそのまま処理しようとしたらDFがヘディングで返してきたんですよ。アディショナルタイムでした。だからオウンゴールになると思い、退場を覚悟してペナルティエリアの外でしたけど、手で弾いてコースを変えました」

主審は榎本にレッドカードを出して一発退場となる。2試合の出場停止を命じられた。二度目は、J1第22節の京都サンガF.C.戦だった。1試合でイエローカードを2枚もらって退場になる。この試合をキッカケに、当時監督をしていた三浦俊也は解任になる。「三浦さんをああいう形で終えさせてしまって、僕自身にも責任があるから納得が行きませんでした」。榎本は試合後、三浦に「すいません」と頭を下げる。三浦は「あれはしょうがないよ」と話した。

三浦が解任され、ヘッドコーチだった和田昌祐が後任に就任した。監督が代わり、榎本はJ1第22節・京都戦を最後に、出場機会を失う。

「試合に出られなくなった原因は、チーム状況もあると思います。残留争いの中で三浦さんが解任となり、和田さんが監督に就いた。そこからチームのムードが変わったこともあります。試合に出られなくなってからチームが連勝した。監督としても、あの時は勢いが必要だったと思うので、残留するためにチームの勢いを崩したくなかったという印象があります。監督が代わって試合に出られなくなったことに関して、全てを受け入れることは難しかったですけど、『チームの状況を考えたならば受け入れるしかない』と思いました。あの状況ではチームの残留が第一の目標になっていたので、個人の考えや思いよりも、チームにとってどうかを優先せざるを得なかった。チームの状況を考えた時に自分のエゴとか、我を出したところで、チームの雰囲気を乱すだけで良いことではないと考えました。いままで僕が試合に出ていたけれど、2番手のGKも頑張っていたわけですし、しっかりと彼をサポートしなければならないと思っていました」

武田は、レギュラーになったGKをサポートする榎本の姿を見て「チャンスがあればもちろん代えたいけど、いまはチームが勝っている以上、なかなか代えられない」と伝える。「どの選手を起用するのかは監督が決めることなので、1選手が何かアクションを起こしても変わることはないです。『いま、こういう状況で自分にできることはなんだろう』と考えました。『自分はグラウンドでどういうパフォーマンスを発揮して、どういう選手になりたいのか』と必死に思いを巡らせていました。もちろん『出ている選手には絶対に負けない』という気持ちはありました」と榎本は語る。

神戸と別れの時が来た。榎本がクラブから契約満了を告げられたのは、浦和レッズ戦でチームが勝利を収め、リーグ残留を決めた日だった。試合が終わってクラブハウスに戻ってくると、GMから「来季は契約をしない」と告げられた。

「3年契約をしている選手は、シーズンの8月から契約交渉を始めてもいいことになっています。その時点でチームからは『いやー、残留もまだしていないのに契約の話はできないよ』と言われました。代理人も『来季の契約はないかもね』と言っていたので、自分としては『契約できない』と言われた時は『残念だな』という気持ちと同時に『やっぱりな』という両方の気持ちがありました」

神戸との契約満了の話を聞いた武田は、「守ってやれなくてすまん。ずっとこの4年間、神戸のゴールを守ってくれたのに……。残留争いしながらも頑張ってくれたのに……。最後の最後にお前を守ってやれなくてすまん」と話す。心の恩師・武田との別れを前に、「僕こそすいません」と言いそうになるが、ぐっとその返事を飲み込んで涙をこらえながら「はい」と答えるのが精いっぱいだった。

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