川本梅花 フットボールタクティクス

【ノンフィクション】もらってきた言葉に感謝を…叱責を糧に成長したキャプテン【無料記事】川本梅花アーカイブ #坂本將貴

対戦相手の監督からの言葉「君は思いやりが全然ない」

坂本が、ある日の試合で、対戦相手の監督から思いがけない事柄を告げられたことがあった。それは、高校生相手の試合である。坂本はトップ下を任されていた。その試合で彼本人は、満足の行くプレーができたと思っていた。試合後に相手の監督に挨拶した時のことだ。

「君は……」

と言って相手の監督はしばし沈黙する。

坂本は、次に続く言葉を待つ。

「君は、思いやりが全然ない。思いやりがあるかないかでプレーが全然違ってしまう」

そう言われた坂本は、帰りに道に相手監督の言葉を思い出して、「何を言おうとしたのか」を考えた。

「いくつか思いつくことはありました。まず、パスの強弱の問題を考えました。味方との距離が短いのに強いパスを出してしまったことなのか。逆に、味方との距離が長いのにスルーパスで出してしまったことなのか。あるいは、前を向けるのに後ろにパスを出したことなのか。それとも、味方の選手の利き足が右利きなのに、その選手の左足にパスを出してしまったことなのか。それらのいずれかだろうと思いました。『思いやりが全然ない』という言葉は、ずっと僕の頭にあって、あれ以来パスを出す時に意識するようになりました」

坂本は、宮田の下で「サッカーについて考える」というキッカケをつかむ。宮田に基礎を仕込まれた坂本が、次への階段を上るための高校進学が控えていた。彼は、浦和東高校に進学を決める。それには、宮田の強い勧めがあったようだ。

「僕は、当時、埼玉県で強かった武南(高校)に行きたかった。武南の方からも誘いがあったので、僕の中では武南と決めていました。武南の練習に参加した時に、選手たちはサッカーがうまかったし、スター選手も間近で見られた。だから、浦和東は全く選択肢になかった。でも、母親と宮田先生は浦和東に行けと何度も言ってきた。先生は僕を説得するために、家に泊まりがけできましたからね。僕の性格的なところとかを考えて、公立高校がいいと思ってくれたんでしょう。僕は、たくさんうまい選手がいる場所で、もまれたかったのですが。逆に、母親や先生は、僕が潰れるんじゃないかって考えたんだと思います。浦和東も埼玉県でだんだんと力を付けてきて強くなっていたし、僕と同年代の選手も浦和東に行くということもあり、僕らが3年生になった時には強くなるんじゃないかって考えて、最終的には自分で決断しました」

恩師が語る高校時代

坂本は、浦和東高校に入学を決めて、やがて監督の野崎と出会うことになる。浦和東高校に入学してサッカー部に籍を置いた坂本は、監督だった野崎について、「先生は怖い存在でした」と言う。「スパルタではなかったんですが、めちゃくちゃ怖かったですね。普段の礼儀のマナーとか、サッカー以外も含めていろいろな勉強をさせられました。僕は人よりも目をかけてもらって、アドバイスもたくさんもらいました。浦和東には入って良かったと、いまも思います。野崎先生は良かったです。1年生の時から試合に使ってもらって経験させてもらったし、先生にしかられることはないですよ。アドバイスを受けても、しかられるってことはない。『こうしよう』と決めたことや言われたことは必ずやり終えなければ嫌なので、『途中で諦める』とかはなかったから、怒られるような方向に進まなかったのかな」と話す。

坂本に「感謝が足りない」と言った野崎は、その出来事を覚えていると言う。そして野崎は坂本をどのようなプレーヤーだと考えていたのかについて語り出す。

野崎は、坂本に「感謝が足りない」と言った理由について次のように話す。

「私が浦和東に来た時は、サッカーの実績が、何もない学校でした。平成元年に赴任したので、あれからもう23年間が過ぎるのですが、当初は、草だけが生えていた場所でした。何もなかったところからグラウンドを作った。坂本たちの時代になってやっと整った環境になる。サッカー部の先輩方が汗水たらして1つひとつ根気強く整備して作ってくれたグラウンドです。『お前ら先輩たちのやってきたことが分からないんだな。こうしてあることが当たり前だと思うなよ』と言いました。いまも生徒たちには、『感謝の気持ちを持つように』と言い続けています」

坂本が浦和東高校に入学したのは、同高校が創立5年目を迎えた時だった。「私が浦和東に来てからは、選手のレベルから言えば、埼玉県で2番手か3番手の選手が集まるサッカー部でした。坂本が初めてですよ。県のトップレベルの選手、それも中学校選抜の中心選手が入学してくれたのは。だから非常に彼には印象が深いです。彼は、特別に体が大きいわけではないし、スピードがものすごくある、というわけでもなかった。でも頭がいいから、プレーがクレバーでした。飲み込みが早いというか、どんどん吸収していってくれた。ポジションはトップ下でした。うまくボールをさばく。2列目から飛び出してドリブルなどで点に絡むプレーをしていました。練習に対しても前向きですよ。『練習をやれ』と言えば、朝から晩までやっているような選手。サッカーでもそうですし、学校でも成績が優秀でした。『ああ、これは大事に育てなければならないな』と。メンタル面も強かったですしね」と坂本の印象を述べる。

坂本は、埼玉県浦和市立美園中学校の3年生の時に、浦和東高校の練習に参加している。その時の野崎の印象は、のちに受けた坂本への印象と変わっていない。「真面目で、練習熱心で、足さばきもうまいし。ドリブルもできる。ただ『周りの選手を彼がサポートできるようになれれば、もっといい選手になれるのに』という印象でした。県のほかのトップ選手は私立の高校に行きます。彼の(美園)中学の恩師の宮田(好之)先生が、『私立の高校は選手を囲って連れていく』とおっしゃっていた。だから、『1から育てる環境が彼にとってはいい』と。11人しか試合に出られない中で、生き残れればいいんだけど、最初から『選手を囲って連れていく』ので、その中に入ってやっていくのは難しいと考えたのだと思います。坂本がうちに来たのは、宮田先生があと押ししてくれたからでしょう」と当時の入学経過を話す。

中学時代に県の中でもレベルの高い選手だった坂本は、高校に入学してすぐに試合に出られるようになる。やがて、チームの中心選手に成長していく。

「彼はキャプテンになったんですが、サッカー部員全員で投票させました。坂本がキャプテンになったのは当然の成り行きですよ。下級生にも同級生にも信頼されていましたから。私は、選手の長所を伸ばしてあげたいと考える。走れる。蹴れる。最低30メートルは蹴られないといけない。彼には『周りをうまく使って最後に自分が活きるんだよ』と言ってきた。全部、自分でやろうとするからね。『それは無理だよ』と。プロになってからの彼のプレーは、簡単にボールを味方に渡して、あるいは相手をひきつけてからフリーの選手を見つけてパスを出す。『ああ、シンプルにやっているな』という印象です」

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