川本梅花 フットボールタクティクス

【ノンフィクション】もらってきた言葉に感謝を…叱責を糧に成長したキャプテン【無料記事】川本梅花アーカイブ #坂本將貴

全力でやらない者はグラウンドに立つ資格はない

大学進学に関して、坂本は、野崎の母校だった筑波大学へ進みたいと思っていた。「筑波に行きたい気持ちはありました。野崎先生が筑波だったんで。でも、全国でベスト4くらいの実績がないと推薦が得られなかった。練習生でもいいから高校を卒業したらプロに行きたいと考えていたのですが、プロからは話が来なかったので、大学に行くことにしました。先生は、『教師の免許を取って浦和東に帰ってこい』って言ってくれたので、体育会系の大学に行こうと思って。最初に声を掛けてくれたのが、日体大でした。それにオランダ人が監督をやると聞いていたので、外国籍の指導者の下でサッカーをやってみたいという欲求もありました」

大学でのサッカー、特にオランダ人監督のアーリー スカンスのトレーニングメニューには驚いたと言う。

「あんなにボールをつなごうとする監督のサッカーは全く経験なかった。高校時代もですが、ボールを使わなかったらフィジカル系の走りという感じの練習が多かったもので、ボールを使いながら走りの強度を上げて、同時にフィジカルも上げていくっていうメニューは初めてでした。プロに行けば当たり前だったのかもしれないけど、『こういう練習の方法もあるんだ』っていうのを知った」

坂本は、1年生のころからリーグ戦に出場するチャンスを与えられていた。そんな時に、新人戦に一度だけ出る機会を得た。その試合で彼は、前半戦の途中に交代を命じられる。ベンチに下げられて、彼はふてくされた態度を取った。坂本の態度を見た監督は「全力でやらない者はグラウンドに立つ必要はない。サッカーがうまいとかそういうのは関係ない。全力でやらない者は立つ資格もない」と言われる。「手を抜いてはいなかったですが、弱い相手とやる時に計算してしまう。普段よりも走らなかったかもしれない。でも、いままで途中交代されたことはなかった。いつも最後までピッチに立たせてもらっていたから、交代させられたことが衝撃的でした。『ああ、相手がどんなレベルであろうと常に全力でやらないと代えられる。自分の甘さを変えなきゃならない』と思いました」と告白する。

翌日の練習を休んで、坂本は自分に問いかけるように、いら立ちながら壁を相手にボールを蹴っていた。それ以降、彼はトップチームに帯同してレギュラーポジションをつかむことになる。坂本の能力を評価した横浜フリューゲルスが、2年生の坂本をスカウトしに来る。スカンスは大学を中退して加入することを勧めたが、まだ果実が熟していないと坂本が判断して話を断る。

4年生になると、FC東京から誘いがある。これは、高校の恩師の野崎と監督の大熊清が高校時代(浦和南高校)に先輩後輩の関係があったので、FC東京に加入することを勧められたという経緯である。そうした背景があっても、高校進学の時とは違って、坂本は自分の意志を通してジェフに行くことを決断する。「『FC東京に行け』と野崎先生には言われたのですが……。僕がなぜジェフへ行きたかった理由は、その時のジェフに代表選手がたくさんいたからです。中学のころに『武南に行きたい』って思った気持ちと同じで、『うまい人たちがいる中でサッカーをやりたい』というのがあって。僕も、『もう社会人になるんだから』と思って、自分の考えを通してジェフでやることにしました」

オシムの叱責??お前のせいで負けた

プロになった坂本を待っていたのは、試合に出られないという厳しい状況だった。

「1年目から、もちろん自信はありました。でも、現実は紅白戦さえも出られなかった。悔しくて、休むこともなくオフの日でも、グラウンドに出て1人でよく練習していましたね。何か目的があって、というわけじゃないですけど。とにかく焦っていました。大卒で即戦力と言われていたのに、紅白戦も出られない状況にいら立ちもあったり、来季は切られるんじゃないかと思ったり。小倉隆史さんには『やり過ぎだ』って何度も注意されました。そのころ僕も小倉さんも寮生活をしていて、僕はほんと1人でいて休まないでボールを蹴っていたから精神的にしんどくなっていました。そんな時に、小倉さんだけが声を掛けてくれてメシに連れていってくれた」

ある日の練習で、チームの自分に対する扱いに納得が行かずに、坂本に気を配ってくれていた小倉に対して、無視する態度を取ったことがあった。

「トップ下のポジションということで加入したにもかかわらず、突然、DFをやらされた。ポジションを変更されるのは、やる人がいないから空いているポジションに回されるというイメージしか持てなかった。それに、いままでDFをやったことがない。だから、どんな風に守備をしたらいいのかも知らないので、全くうまく行かない。それでいら立って態度に出してしまった。その時に、小倉さんに何か話し掛けられたんですが、聞き流してしまった。うしろから僕の名前を呼んでいる。けれども、シカトした。あとで部屋に呼ばれて『なんだ、あの態度は』と怒られながら『いきなり違うポジションをやっても誰だってうまく行くわけがないのだから、ミスした時にはもっと気持ちを切り替えなきゃならない。もうあんな態度は取るなよ』とアドバイスを受けました。それからは、気を付けて、不満があっても態度に出さないようにしました」

2003年になって、イビチャ オシムがジェフの監督に就任する。プロ4年目を迎えようとしていた坂本は、レギュラーポジションを獲得して、前年度の2002年には、リーグ戦30試合に出場するまでに成長している。

坂本はよくオシムに怒られたという。特に印象にあるのは、2003年7月20日、第13節、1stステージのジュビロ磐田戦後、ロッカールームで言われたことである。ジェフはジュビロと首位争いを繰り広げていた。試合は2-2で終わる。

「今日の試合は、お前のせいで引き分けた。お前のせいで負けたようなものだ」

とオシムは選手たちの前で坂本をしかる。

坂本は、試合に引き分けた悔しさとオシムに言われた言葉にショックを受けて、人前にもかかわらず声を出して泣いてしまう。「『サイドからクロスを上げさせるな』とオシムさんはよく言っていました。その試合では、FKの場面があった。FKだとマークが変わるので、マンツーマンでそれまでマークしていた選手がサイドにいて、僕が誰のマークに付くのかを迷った。そうしたら、本来マークしなければならない選手がサイドにいて、その選手にボールが渡ってクロスを上げられた。ヘディングでやられて同点になった」と語る坂本の記憶には、いまでもそのシーンが刻まれていた。

オシムにしかられた後、1人下を向いたままバスに乗り込もうとした時に、オシムが坂本に近寄ってきて「明日、昼飯を食べに行こう」と言う。翌日になって、オシムとコーチングスタッフ全員と同じテーブルで食事をする坂本がいた。オシムは坂本に、しかった理由を話し出す。

「昨日は、なぜ、お前にあんな言い方をしたのかというと、とにかくお前はこのチームに大きな影響力がある。その影響力があるお前を厳しくしかることで、ほかの選手たちに『こういうプレーや判断は致命的になる』ということが伝わっていくだろうし、また伝わっていってほしいと考えたからだ。失点につながるミスをしたならば、その場で言わないと直らない。良いプレーでも悪いプレーでも、その場で言うと覚えていくからな」

オシムの話をじっと聞いていた坂本は、「僕のミスだと分かっていた。でも、すごくうれしかった。この人に付いていきたいと思ったし、これからもチームに貢献したいと思った」と述べる。

坂本は、その後、2007年に新潟に移籍して1年後の2008年には再びジェフに復帰する。ベテラン選手になった彼は、ここまでさまざまな指導者と巡り会って成長をしてきた。そうした自分自身を振り返って彼は静かに語る。

「いろんな人に言葉をもらったことに感謝しています。そうした人たちと僕が『言葉のパス』をうまく交わせていたのか分からない。僕は、宮田先生や野崎先生たちから『言葉』をもらってばっかりいた。だから『感謝』しかありません」

川本梅花

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