川本梅花 フットボールタクティクス

【無料記事】札幌大学サッカー部の河端和哉監督と久しぶりに話した夕方、僕はあの夏の日の出来事を思い出した。【コラム】

【コラム】札幌大学蹴球部の河端和哉監督と久しぶりに話した夕方、僕はあの夏の日の出来事を思い出した

ヴァンラーレ八戸の相田 勇樹についてのコラムを書いた翌日、相田の母校・札幌大学サッカー部の河端 和哉監督に電話をして相田の学生時代のプレーや人柄を聞こうと思った。河端と話をするのは2年ぶりくらいか。

「河端くん?お久しぶり。ヴァンラーレの相田くんは、札幌大学サッカー部出身だったんだね」

「そうなんです。僕が監督になった年に彼は2年生になる時でした」

「明日、話を聞きたいんだけど。相田くんのことと水戸の平塚(悠知)くんの話。それと、札幌大学サッカー部をどうやって立て直したのか、についてだけど、時間を作れる?」

河端は、僕の頼みを快く引き受けてくれた。

「明日は総理大臣杯の決勝なんです(7月18日、第45回総理大臣杯全日本大学サッカートーナメント北海道大会決勝)。夕方の5時からなら時間を作れますよ」

決勝では、札幌大学が北海道教育大学岩見沢校を2-1で破って全国大会の出場権を得る。

前日に打ち合わせした通り、相田と平塚の話をしてもらってから札幌大学サッカー部の改革についての話題でインタビューが終わった。ボイスレコーダーのスイッチを切った僕は、ラインメール青森FCで活躍していたチームメイトの何人かが、ヴァンラーレ八戸に移籍していることを話題にして会話を続けた。

「赤松(秀哉)が3バックの真ん中をやってからディフェンスが安定したんだよね」

と僕が話を切り出す。

「赤松はラインメールの練習に参加した時、当時監督だったクズさん(葛野 昌宏/現ヴァンラーレ八戸監督)に『僕が鍛えるから彼を入れてください』とお願いしたんです」

「ああ、そうだったんだ。近石(哲平)を左ストッパーにして、赤松を真ん中にしてからうまく機能するようになった。それに、廣瀬(智行)と横山(卓司)も来たし。中村 太一もいる。こうしたことで何か思うことはある?」

そう問いかけた僕に、河端は次のように答える。

「ラインメール時代のクズさんは、国体で優勝するなどリーグ戦も負けなくて成績も良かったですよね。そうしたいいイメージがクズさんの中に残っていて、僕は選手生命を賭けて戦っていたので、あの頃の選手が集まっているのは、やっていて良かったなとうれしく思います」

「そうだね。ところで太一だけど、リーグが始まってすぐは、このチームは新井山(祥智)のチームから太一のチームになるんだなと思ったんだけど、ケガが多いんだよね」

河端は僕の話を受け、自分の体験談を交えて話し出した。

「ケガをどうやって乗り越えるかなんですよね。太一はいま、分岐点に来ているんだと思います。僕が26歳の時にひざをケガして、それからサッカーに対する取り組み方とか考え方が変わりました。もしあの時にケガをしてなかったら、いまのように、考えることはなかった。ケガをしないでプレーできたら、それはそれでいいんですが、ケガは避けられない場合があります。ケガをして、初めて気付かされることってあるんですよ、太一がケガをしているこの時に、どうやって克服して回復するのかで、彼のこれからのサッカーが決まると言っていいです」

僕は、河端が発した「ケガ」の言葉で思い出すことがある。僕が青森に取材に行くと、必ず練習後に河端と奥山 泰裕(コバルトーレ女川)と僕の3人で青森駅の近くの寿司屋で食事をした。その場で、河端が「すみません、足を伸ばしていいですか?」と言ってきた。僕たちは座敷で寿司をつまんでいた。「古傷なんですが、足が‥‥痛み止めを打って試合に出ているもので」と言う河端を前に、「気が付かなくて申し訳ないことをした」と僕はあやまった。

ちょうどあの頃は、ガンが再発してむつ市立病院に入院していた父の見舞いに、何度も東京と青森を往復していた。父の見舞いの後、ラインメールの練習を見て、彼らと食事をして、深夜バスで東京に戻るスタイルだった。僕は下北駅から青森駅に行く電車に乗る。窓から見える空には太陽の光しかない。

僕は河端と話をしていて、あの頃の夏のいろいろな出来事を思い出した。

川本梅花

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