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【ノンフィクション】水沼宏太(横浜F・マリノス)「息子が父親を凌駕する瞬間~父から息子へ継承されるもの~」【無料記事】川本梅花アーカイブ

試合に出られない日々と西谷コーチの救いの手

水沼は、一見すると順調にサッカーのエリートコースを歩んでいるように見える。だが実は、そうではない。一番基礎を身につけなければならない時に、彼は大きなケガをしてしまう。小学5年生の時は中心選手として試合に出ていたのだが、小学6年生の全国大会の予選を前に足を骨折して出場できなかった。

「小学校の時に骨折をしたことが選手として大きな代償でした。基礎を学ばなければいけない大事な時期にケガをしてしまって。それに、体もちょうど大きくなってきた頃だから自分がイメージしたように体も動かないわけです。技術的に長けている子たちが周りにたくさんいた。宏太はそんなにスピードがあるわけではないし、身体的に恵まれていたわけではない。ほかの子たちにはなかなか追いつけない。だからプレーしていても面白くなかったと思います。彼の中でもそういう思いはあったはずです」

父は息子の苦悩を身近に感じていた。

水沼がケガしていた時に、父と自宅でリハビリがてらクッションボールを蹴った。右足にはギプスがはめてある。貴史は「ケガをしていてもケガをしていない足が動くからできるよ」と誘う。ギプスをしていない左足を狙ってクッションボールを投げる。「左足、うまくなろうよ」と言葉をかける。水沼は「うん、そうだね」と言って痛みをこらえて唇を一文字にした。水沼から蹴られたボールを受け取りながら貴史は話し続ける。

「最終的にどこに行くのかが、しっかりしていればいい。問題は、いまじゃないからな。いまは試合に出られなくとも、ケガが治った時に練習で頑張ればいいんだよ。試合に出られない悔しい思いは心の中にずっと残るから、この悔しさは次の機会に発揮すればいい。必ず挽回するチャンスは来るから」

横浜F・マリノスのジュニアユースに加入するキッカケは、あざみ野FCやほかのクラブから選抜されたスペシャルチームのメンバーに選ばれた時に、練習を見ていたマリノスの関係者からジュニアユースに勧誘されたからである。

しかし父と同じマリノスのユニホームを着られた水沼だったが、中学1年生、中学2年生の2年間は試合に出ることはなかった。だからAチームにも入れないでいた。ケガではない理由で試合に出られないことを経験する。「中学になって、試合に使ってもらえない悔しさを初めて知りました」と水沼は語る。

彼の不遇の時間を救ったのは、中学3年生になってチームを担当したコーチの西谷 冬樹だった。

西谷は練習が始めると、選手全員を集める。そして水沼をみんなの前に出してこう話した。「練習の合間に休憩を入れるとみんなは水を飲むよな。次の練習が始める時には誰が最初に戻ってくると思う?いつも最初に戻ってくるのは宏太だ。誰よりも早く戻って来て次の準備をしている。それにしっかり人の話を聞いて真面目に練習に取り組んでいる。お前らも宏太を見習いなさい」。西谷は、事あるごとに水沼を引き合いに出してチームメイトに彼を模範にするようにと話した。水沼は「小さいことかもしれないですけど、そういうところを見てくれている人もいるんだなと思いました。本当に……なんと言うか……自分のレベルがレベルだったから。俺は身体の成長がちょっと遅かったというのがあって、技術的なレベルでも周りの選手に比べて劣っていたし、足もそんなに速かったわけではない。だから『誰よりも早く戻って来て体の準備をしよう』とか『真面目に全力で練習に取り組んでいこう』と思ってやりました」と述べる。

西谷は、真面目に練習に取り組む水沼に副キャプテンを命じる。「最初は、なんで俺にやらせるんだろうと思ったんです。副キャプテンを任されたけど、試合には出たり出なかったりで」と当時を振り返る。では、戸惑う息子を貴史はどのように見ていたのだろうか?

「ちょうど中学3年生の時ですね。それまでの指導者がダメだとは言いませんが、宏太にとって西谷さんの影響は大きかった。このコーチだったら宏太のいいところを見てくれるかもしれないと思っていました。例えば、プロの選手でも監督にいいところを見せようと思って、こそくなことを考えるヤツもいるわけですよ。そうじゃなくて、監督やコーチは自然にやっている選手の振る舞いをきちんと見ていてくれないと。宏太の真面目な姿を見てもらえたということがあって『頑張っていれば何かあるな』とあいつの中でも感じるものがあったんじゃないですかね。とにかく一生懸命ですよ。常に100パーセントでやっている。普段ちゃんとやっていなくて、要領だけよくやっているというヤツを宏太は嫌いなんですよ」

「僕の場合はどうかと言われれば……お父さんはもうちょっとずる賢かったかな(笑)。まあ、そう周りからは思われていますよね。ただ僕の中でも、要領よくやっているというような選手の姿を見れば、腹は立ちますよ。副キャプテンに関しては、練習でもそうですが、絶対に手を抜かないでやっていて、いろんなことを計算しながらやるのではなく、自然に一生懸命やれる。そうした姿を見て『あいつ頑張っているな』と思って周りの選手が変わっていく。そういうようなことが、宏太は自然にできる存在なんです。ジュニアユースに入った時には『僕と同じマリノスだな』とは思いました」

「ただジュニアユースに入ってもユースに行ってトップに上がらなかったら、プロとしてはマリノスのメンバーとは言えない。宏太は本当にユースに上がれるのかどうかも分からなかった。彼は高校でサッカーをすることも考えていましたから。ただコーチが西谷さんになって宏太のプレースタイルが変わってきたなと感じていたので、もしかしたらユースに上がれるチャンスがあるかもしれないとは思いました」

水沼自身もマリノスのユースに上がれるとは思っていなかった。神奈川県内の高校は将来有望な選手をリストアップしていく。水沼と同期のジュニアユースの子供たちには、何人かサッカー強豪高校のリストアップに入っていた選手もいる。しかし水沼はそれにも入っていなかった。そうした息子の現状を貴史も理解していた。だから水沼が「ユースでサッカーをやりたいんだけど難しいかもしれない。高校サッカーには憧れがあって、進学してサッカー部でやろうかと思っている。サッカーに打ち込みたいから、寮のある神奈川県外の高校に進学しようかと考えているんだけど」と打ち明けた時、貴史は「好きなようにしな」と伝えただけだった。しかし父として水沼の心の動きをしっかりと見ていた。

「宏太は、みんなでまとまってやるということから作られる一体感が好きなんですよ。高校サッカーはクラブユースと違って、そういうものがあるじゃないですか。高校選手権という目標に向かってみんなでやっていくと言う。やりきったとか達成感とかが選手権を目指すことで直接感じられる。たとえ試合に負けても、みんなで頑張ったんだからという、感情やそこまでの過程とか、そういうものが好きなんですよね」

「ユースの場合は、選手おのおのがプロを目指してやっている場所なのであって、高校サッカーに比べたら目指すものが違うので、一体感という意味でまとまりというものはないかもしれない。宏太は、そういったところでユースか高校か悩んだと思います。それにサッカー強豪高校でやるには自分のレベルでついていけるのかとか、ユースに上がりたいんだけど上がれるのだろうかとか、そういう彼の葛藤を僕は知っていました」

高校のサッカー部に籍を置いてプレーすればいいのか、あるいはマリノスのユースに上がれるのかどうか、という葛藤の中で、水沼はマリノスからユース昇格の知らせを受けたのだった。

「プロを本当に目指そうと思ったのは、ユースに上がった時です。ユースに上がれると知らされた際に『なんで俺が上がれるんだ』と思ったくらい。常時、試合に出ていたわけではなかったですから。そんな状況だったから『誘ってもらった限りは本気でプロを目指そう』と決心しました」

水沼はそう言って大きく深呼吸をする。そして同じサッカー選手である父・貴史のプレッシャーを語りはじめる。

「親のプレッシャーを感じたのは、高校1年生でU-15日本代表に選ばれた時ですね。俺は、マリノスのユースに上がって試合に出られない状況にいたんです。たまたまですよね、練習を見にきた代表コーチの目に俺のプレーが留まったのは。その時は『親のおかげで選ばれたんだろう』と自分ではすごく意識しました。そんな風に誰かに何かを言われたわけではないんですが……。そこでですよね、初めて親の存在を意識したのは。自分は自分として認められたいけど『親は偉大なサッカー選手だったからな』って。親のことを言われることに悪い気はしないけど『水沼貴史の息子だからな』という風に言ってくる人たちには『自分の名前を認めさせてやろう』という気持ちが強くなっていきました。『絶対に見返してやろう』と思ったんです」

水沼は「誰かに何かを言われたわけではないが」と語った後で「絶対に見返してやろう」と思ったと話す。水沼本人は多くは語らなかったが、常に試合に出られていない選手がU-15日本代表のメンバーに選ばれたことで、さまざまな声が上がった。それは、サッカーの親子鷹という賛辞だけではなく、ある種の嫉妬からくる誹謗中傷の声も含まれていた。貴史にはそうした声が耳に届いていたのである。

「宏太が小さい頃から、僕が少年団の試合やジュニアユースの試合を見に行けば、あいつのことを『あれが水沼の子供なんだ』と見られていたと思うんです。だから必ず宏太の意識のどこかには『水沼の子供』というものがあったはず。宏太がユースに上がれたということは『もしかして水沼の子供だから上がれたんじゃないか』と思われているのかもしれない。彼がそう感じてしまうんだったら、すごくかわいそうなことだと思いました。ユースに上がったこともそうですが、U-15日本代表に選ばれた時も、インターネットでの宏太への誹謗中傷はすごくて、そうした声を僕は許せなかった。僕も掲示板の書き込みを見たし、宏太も見たんです。『ねたみ』とか『うらみ』からの言葉の羅列」

「僕に対して人々が思っていたことが、そのまま宏太に言ったのかもしれないと悩みました。内情を知っていなければ書けない内容もあったので、もしかしたら、『書き込んだ相手は?』と疑心暗鬼になりました。宏太は宏太で相当に苦しんだと思う。だけれども、やっぱり、そういうものを払拭するのもあいつ自身なんですよ。周りを黙らせるのもあいつの力次第に。そういう意味でも宏太はユースに入ってからも相当に頑張ったと思います」

このことで貴史は水沼にこんな風に話す。

「これから先、絶対に水沼の息子と言われるけど……何を言われても頑張んな」

「それは分かっている」

水沼はひと言だけ返すだけだった。

子供の頃に水沼は、あざみ野FCに所属していた時、日本代表のユニホームを買ってほしいと貴史にせがんだ。しかし代表のユニホームは自分で勝ち取るものだと言って与えてもらえなかった。高校1年生になった水沼は、U-15日本代表に呼ばれて自力で日本代表のユニホームを手に入れた。だが誰もが認めるような代表ユニホームが似合う選手には、ほんの少しだけ時間が必要だった。

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