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【ノンフィクション】水沼宏太(横浜F・マリノス)「息子が父親を凌駕する瞬間~父から息子へ継承されるもの~」【無料記事】川本梅花アーカイブ

プレースタイルの確立

水沼のいまのプレースタイルは、「献身的な動き」という言葉で言い表すことができるほど、豊富な運動量でグラウンドを疾走するイメージがある。そうしたプレースタイルは、どのようにして生まれたのだろうか?

父の貴史と走り方が似ていると一般的には言われる。特に走る後ろ姿は確かに似ているように見える。そしてボールを味方に出す時のアイデアも似ている部分がある。いつパスを選択するのか。どこでシュートの選択なのか。どんなボールを出すのか。いまボールをペナルティエリアに入れるタイミングなのかどうか。つまり局面局面でのプレーは似ているのである。だから親子で一緒にサッカーをTVで見ていても「いまはこうだったよね」と意見が一致することが多い。水沼は父のプレーを「ドリブルもパスもレベルが高く、ゴールをした人に常にアシストしているという印象です」と述べる。

「チームのために汗をかく。目立つプレーをする人のためにスペースを空ける動き。いま、このチーム何が足りないのかを考えて、『じゃあ、そこを補うプレーをしよう』と実践する。俺はチームのためにという思いが強いんです。ただ途中から試合に使われた場合、得点を決めるとか結果を出さないといけない。チームのためにというプレーを中心にしてしまうと、結果でしか評価しない人もいるので難しいこともあります。だから点を決めたりアシストをするなど、個人的な数字を出すためにプレーしなければと思う時もあります」

そう語る水沼にある転機が訪れる。それは、FIFA(国際サッカー連盟)U-17W杯出場権をかけたAFC(アジアサッカー連盟) U-17選手権で北朝鮮を破って優勝監督になった城福 浩との出会いである。

城福が招集したチームのメンバーには、水沼のほかに柿谷 曜一朗や山田 直輝がいた。城福が掲げたサッカーは「ボールも動くし、人も動く」というコンセプトだった。U-17のワールドユースの国際大会出場を目指して構成されたチームは、時間をかけてじっくりと作られた。したがってチームワークもよく、十分に組織化されている。水沼にとっても自身の存在感をアピールできるサッカーである。

まず練習前に「こういうサッカーをやっている」とチームが練習しているビデオを招集した選手全員に見せる。実際の練習では、同じチームでビブスを同じ色にしないで2色に変えるなどした。例えば6人のチームで、3人は赤のビブス、もう3人は緑のビブスに分ける。自分と同色の選手にはパスを出してはいけない。あるいはボールを回していて、同色の選手にリターンしてはいけないなどの規制をもうける。つまりパスを出す選手が限られてくるから、動き回わらないと出し手が見つけられないことになる。

「城福さんは、熱い感じの人でした。試合中のジェスチャーとか、ゴールを決めたら自分のことのように喜ぶ姿とか、選手たちはそんな城福さんに感銘を受けていました。あのチームは2年間で作り上げたんです。1回の合宿で1つのことしかやらない。最初はボールを出したら受けた選手を追い越すというオーバーラップをやらせた。それをやれば褒められるから一生懸命にやる。『じゃあ、これをやればいいんだ』となる。次に『これができたからこれ』と順番に動きを理解させていった」

「最初の頃、俺は中心選手ではなかったので、代表に生き残ることしか考えていませんでした。俺にとって城福さんとの出会いが大きかったと思います。あの代表があったから、いまの俺のプレースタイルが確立できたと思うんです。それに代表に入れたのは『どうせ水沼の子供だからだろう』って言っている人を見返さなければいけないという気持ちはありました。でも代表に入っても最初はサブ組だったんです。(AFC U-17選手権2006の)1次予選(2005年11月15日)が韓国であって、たまたまなんですが、先発で使ってもらって2得点(マカオ代表戦)を決めることができました」

韓国での1次予選で水沼の背番号は5番だった。水沼は試合を観戦しにきた貴史を見つけて話しかける。

「背番号が5番なんだ。俺は信頼されていないのかな」

と頭によぎったことを吐露する。貴史は「ジダンだってレアルで4番だったんだ。そんな風に思えばいいよ」

と言葉を返す。

「日本代表のユニホームを自分の手で着られるようになって、その最初の試合を父は見にきてくれた。父の顔を見た時に、『やっとここまできたな』という気持ちになったんです」

そうした思いがこみ上げてきた水沼は貴史の顔を見て話す。

「日本代表のユニホーム、自分の手で取ったから」

そう話した水沼に、貴史はやさしく言葉を置いた。

「よくやったな。ずっと残れるように頑張りなよ」

「AFC U-17選手権(2006年9月3日)のグループリーグでシンガポール代表(1△1)と戦った時、ファウルを取らなかった審判のジャッジに対して『それはフェアじゃない』って熱くなって抗議して。たぶん、そうした俺の姿を見て、3戦目の韓国代表戦(3〇2)に城福さんから『お前つけろ!』と言われてキャプテンマークを渡されたんです。その時に『このチームの中心になってやらなければならない』と思いました」と水沼は語る。

キャプテンマークをつけたのは、小学生以来だった。試合前に、腕に巻いたキャプテンマークに少し照れた水沼は、「なんで俺、キャプテンなの?」とつぶやく。宿泊先のホテルで同室だった山田は「キャプテン、行きましょうよ!」とおどけて水沼の背中を押してグラウンドに駆け出す。

技術的に見れば、柿谷や山田などの選手と比べて水沼は、ずば抜けて高いレベルにいたわけではなかった。そうした現状の中、代表選手として生き残っていくためには、何をすればいいのかをずっと考えていた。水沼の考えを知った貴史は、「お前、動けるんだからもっと動け。動いてチームのために走れる選手になった方がいい。そういう選手はチームには必要で、そういう選手がチームを動かしている」とアドバイスを贈る。

「自分は体格が大きくて技術的にずば抜けていたわけではなかったので、そこで生き残っていくためには、自分が『これだ』と思えるものを何か1つ見つけなければいけないと思ってはいたんです。練習を常に全力でやっていく中で、次第に体力がついてきて、いろいろなところに顔を出せるようになったんです。そうしているうちに気持ちも切り替わっていったというか。俺、いつのまにか走れる選手になっていたんですよ。実は、こうしなければいけないから、こうしようとはあまり思ったことがない。ただ、チームにフィットしたプレーをいかにするのかを考えていました」

そう語る水沼に父は別な答えを持っていた。

「宏太はもう忘れてしまっているかもしれないんですが、プレースタイルに関しては、あいつに細かく話したことがあったんです」と貴史は語る。

「キックはうまいから、問題はシュートですよね。2列目からバイタルエリアに入っていって、点を取れないと評価されない。だから、『パッサーになんかならなくていい』と言ったんです。パッサーやドリブラーはいっぱいいる。動き回ってボールを受けて、正確なキックを蹴れる選手はそんなにいない。そうするとポジションが固定されてしまうという問題が挙がり、そこでレギュラーを取れなかったら選手として難しくはなってくるんですが……。『それが宏太の武器だから、それを伸ばしていったらいい』と話したんです」

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