川本梅花 フットボールタクティクス

【ノンフィクション】#ヴァンフォーレ甲府 社長 佐久間悟が歩んできた道―理想の戦い方を求めて―【無料記事】

目次
NTT関東サッカー部への挑戦状
モアテン オルセンのアドバイス
妥協なきピム ファーベックの要求
理想のシステムに向かって歩み出す
チームを強くするために何をするべきか

NTT関東サッカー部への挑戦状

佐久間 悟は、駒澤大学サッカー部に籍を置いていた。当時の同大学サッカー部は何人もの選手をNTT関東に送り込んでいる。だから両チームは頻繁に練習試合をする間柄だった。

「僕はサッカーオタクだったんですよ」

佐久間は大学生の頃を振り返って話す。

NTT関東サッカー部で活躍した佐々木 則夫が帝京高校でプレーしていた時、インターハイ優勝や高校選手権ベスト4に進んで活躍する姿に、佐久間は憧れを持っていた。佐々木は佐久間の目標であり尊敬する選手だった。その憧れの選手がいるNTT関東サッカー部の練習に参加させてもらう機会があった。しかし彼は期待とは裏腹の感想を持つ。「実力者ぞろいだが、みんな一生懸命に取り組んでいない」。それが練習参加した佐久間の抱いた実感だった。

佐久間は高校・大学と血眼になってサッカーに打ち込んできた。おそらく、NTT関東サッカー部の選手たちも、佐久間と同じように打ち込んできたはずだ。しかし一般企業に務める社会人のサッカー部員は、サッカーだけに打ち込むことは許されない。部員たちは、自分に与えられた仕事を片付けてから練習に参加する。翌日も会社へ出勤して仕事をこなさなければならない。余力を残さないと身体的にキツくなってしまう。

佐久間は大学を卒業すると、憧れの佐々木の後を追うようにNTT関東に入社してサッカー部員になる。入社してすぐに、諸先輩たちに「練習に出ましょうよ」と声をかける。当時のサッカー部は週に2、3回の夜の練習を行っていた。部員たちは夕方5時まで、それぞれ配属された部署で仕事をする。練習は、それから行われた。練習がない日、仕事の後に上司や同僚、あるいは取引先との食事や酒の席に駆り出される。当然、「明日は練習があるので」と断ることができない。コンディションを整えることは皆無になる。接待を行った翌日、ハードな練習メニューなどこなせることはできず、無理をして動いてケガをした部員もいた。悪循環を生む環境。だからと言ってサッカーだけに集中できない。サッカー部はあくまで、会社の普及事業の一環でしかない。生活のために、家族のために、そして自分自身が生きて行くために、サッカーに傾ける力を半分にセーブしながら生きていく。そうしないと、自分の身体が潰れてしまう。入社1年目の佐久間の目の前には、そうした環境が立ち塞がっていた。

佐久間が入社してしばらくすると、中心選手の1人「ミスターNTT」と呼ばれた赤井 勝弘に「このチームはクオリティーが高いと思います。もっと力を入れてやったら上に行けるんじゃないんですか。勝つためにサッカーをしましょうよ」と訴える。入社したての1人のサッカー部員が、経験と伝統を背負ってきた中心選手に「意識改革」という挑戦状を叩きつけたのである。

モアテン オルセンのアドバイス

「選手の意識改革」という挑戦状は、あの日から15年以上を経て、再び必要な時がやってきた。それは、大宮アルディージャがJリーグ参入を前にした1998年のことであった。

「僕はオランダのサッカーが好きなわけではなかった」

佐久間は語り出す。

NTTサッカー部に所属していた時の監督は清水 隆だった。清水は、ブラジル人を臨時の雇用コーチとしてチームに招く。そのコーチの指導を受けた佐久間は、ブラジル人にとってのサッカーは彼らの生活の一部になっていることを実感する。「われわれ日本人は、ブラジル人のようにサッカーが慣習化している文化で生活しているわけではない。何か体系的なものがなければ、日本にサッカーが根付かない」と彼は考えるようになる。

駒沢大学のサッカー部で同期だった三浦 俊也が、ドイツのケルンスポーツ大学に留学していたことも手伝って、欧州のサッカートレンドについて話し合う機会に恵まれる。そんなこともあって、佐久間は「いつか欧州に行って現地でサッカーのベーシックな部分に触れてみたい」と思うようになった。

「僕は、サッカーじゃなくて、フットボールを学びたい」

そう言って佐久間は、欧州に旅立つ決心をした。

最初に欧州に足を踏み入れたのは、三浦から話を聞いていたドイツだった。しかし佐久間が紹介されたドイツサッカーの指導者たちは、彼を満足させる理論を持っていなかった。

「あるコーチが『ボールを強く蹴りない』と言います。そこには『こうしなさい』というコーチの指導は存在します。しかし僕が『なぜそうするんですか』と問うと、コーチの答えが明確ではない。つまりそれは、僕に言わせれば、理論がないに等しい」

ドイツで出会った指導者たちは、佐久間が日本にいる時に学んだことと何も変わりがなかった。ドイツの滞在が1カ月を過ぎると、1・FCケルンの監督をしたモアテン オルセン(元デンマーク代表監督)と知り合う。佐久間の事情を聞いたオルセンは、オランダへ旅立つことを勧める。「もし君がモダンなサッカーを学びたいのならオランダに渡りなさい」。オルセンの助言に従い、佐久間はすぐにオランダへと向かう。

オランダでは、オルセンが述べていたようにモダンなサッカーが展開されていた。それはサッカーと呼ばれるものではなく、佐久間が望んでいたフットボールと呼ばれる姿だった。論理的で、理路整然として、システムやフィジカルトレーニング、さらにメンタルトレーニングまで、サッカーに関わること全てが体系的に語られている。佐久間は一瞬でオランダのサッカーに魅了されていく。佐久間が実体験したサッカーは、世界のモダンフットボールの源泉であるリヌス ミケルスが具現化したトータルフットボールだったのである。

「サッカー理論の全ての源流は、あそこにあった」

当時を思い出し、いまでも熱弁を振るうほど彼を虜にした。こうしたオランダでの経験が、1999年の大宮Jリーグ参入に活かされる。

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