川本梅花 フットボールタクティクス

【ノンフィクション】#ヴァンフォーレ甲府 社長 佐久間悟が歩んできた道―理想の戦い方を求めて―【無料記事】

妥協なきピム ファーベックの要求

大宮が、J2リーグに参入する前年の1998年、フォルトゥナ・シッタート(オランダ)からピム ファーベックを招聘する。この時ピムのほかに候補者が2人いたと言う。オランダのフィテッセで監督をしていたヘンク テン カテと、日本代表監督だった岡田 武史である。カテは、監督就任を了承するが、法外な契約金を要求されて破談になる。岡田には「W杯が終わるまで待ってほしい」と言われる。時期的に難しいと判断して岡田を諦める。そうした状況の中で、大宮が提示した条件と一致したのがピムだった。

佐久間が、クラブにピムを推薦したのは、オランダのサッカーをチームに浸透させるためだけではない。カリスマ的存在だったピムがチームに入ることで、サッカーだけではなく、フロントやコーチにも影響を与えて、彼らにモダンサッカーの合理性を学ぶ機会が与えられると考えたからだ。

1998年夏に来日したピムは、練習においてクラブハウスで待機するだけで、10日間これといった指示を出さない。

「佐久間、今日は自分たちでやってみろ」

一歩下がった位置からチームを見守る。そして来日してから2週間が過ぎた。ピムは突然に「OK!みんなのやり方は分かった。今日から本気でやるよ」と佐久間に声をかける。「俺は今日から100パーセント、妥協なしでやるかな」と発言してピムの指導が始まった。ウオーミングアップを前日と同じようにこなす選手たち。ピムは彼らに向かって怒鳴り散らす。「お前ら何やってんだ。このアマチュアが!」。グラウンドは一瞬にして凍りつく。静まり返った選手たちとコーチの前には、大声で罵声を飛ばすピムの姿があった。

練習が終わってから、ピムは佐久間を監督室に呼ぶ。「来季のプランをいますぐ立てなさい」とピムは命じる。「来年のプランですか?」と佐久間は聞き返す。「そう、いますぐに取り掛かりなさい」。ピムにそう言われた佐久間は、依頼に応えようとがむしゃらに仕事に励む。当時を振り返って佐久間は話す。

「9月から12月まで平均睡眠時間は3時間でした。無休ですよ。いまで言えば、ブラック企業ですね(笑)。でも、あの時は本当に必死でした。いやー恥ずかしい話、急性胃腸炎で2回病院に運ばれて、円形脱毛症にもなってしまいました。それでもピムは『ハードワークしろ!』と容赦なかった。ピムのハードワークは『がんばれ!』ではなくて、『休むな!動き続けろ!』という意味なんです」

大宮はそのシーズンの天皇杯・ジュビロ磐田戦で、ピムが指導したゾーンディフェンスを完成させつつあった。試合の前日にピムは「ありがとう、佐久間。素晴らしいハードワークをしてくれた。グッド・ジョブ!」と言葉をかける。ピムが来日して初めて「ありがとう」と言われる。ピムは何日にどんな成果を出せるのか、そしてそれがどういう方向に向かうのかを明確に示さないと納得しなかった。「これでもか」と要求してくるピムを納得させるために、佐久間は必死に働き続けた。

理想のシステムに向かって歩み出す

佐久間は、大宮にモダンな欧州サッカーのスタイルを導入したいと望んでいた。具体的には、攻撃面において、UEFAチャンピオンズリーグ1994-95で優勝したアヤックスの「3-4-3」から生まれたアタッキング・システムを、守備面では、アリゴ サッキがイタリアで用いたゾーンディフェンスを融合できないか、という理想像を持っていた。当時のピムは、オランダで「4-4-2」のゾーンディフェンスを完成させていた。ピムが行った戦術は、ゾーンディフェンスの守備をベースにして、攻撃時は、アタックに入る時にCBの1人が上がって「3-4-3」のシステムを形成した。CBとCHが並ぶように上がって行く際に、サイドの選手はピッチの中に絞ってポジショニングをする。

要するに守備時は「4-4-2」のゾーンディフェンスを取る。攻撃時はCBとMFが一列上がって「3-4-3」になる。いまで言えば「ポジショナルプレー」のように、それぞれの選手のポジションが重ならないように配置する。

しかし大宮は第1クールと第2クールでは勝てなかった。その理由は明白だ。理想のシステムがあっても、それをこなせる選手が当時の大宮にはいなかったからである。佐久間は、こんな風に語っていた。

「とにかく前にプレッシングなんです。選手は次第に試合途中から走れなくなる。特に、足の遅い選手なんかは、相手からボールを全く奪えないわけです」

佐久間は「形を作ったところに選手をはめ込んでいく。そうした方がチームを作るのに早いんです」と話す。ピムに形を作ってもらって、適正な選手をそこに起用していく。そうしたやり方を基礎づければ、その基礎に従って育成組織で教育され、コーチが指導しやすくなり、チームコンセプトがはっきりして、きちんと組織化できると考えた。

1998年のチームは、ピムと佐久間の理想に向かって、少しずつであるが変化していった。佐久間は「ピムの指導でこのまま行けば理想に近づける」と考えていた。しかし1999年、ピムは半年大宮を指揮した後、「家庭の事情でオランダに戻らないとならない」と告げてきた。「いつ日本に戻って来られるのか分からない」と言う。ピムの退団が決まり、次の指揮官を探さなければならなくなった。「実はオランダ代表のヨーロッパ選手権の分析担当者に就任することが決まっていたらしい」。のちに佐久間が聞いた話である。

ピムが退任し、当時のゼネラルマネージャーだった清雲 栄純からヘッドコーチ就任を打診。同時にコーチだった三浦を監督にすると告げられた。2000年シーズンを任された三浦は、「ピムのサッカーを継承するように」と清雲から指示される。前年度同様にシステムに見合った選手がいなかったので順位は4位に留まる。

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