川本梅花 フットボールタクティクス

【ノンフィクション】#ヴァンフォーレ甲府 社長 佐久間悟が歩んできた道―理想の戦い方を求めて―【無料記事】

チームを強くするために何をするべきか

2001年シーズンの大宮にJ1昇格のチャンスが巡ってくる。大宮は第3クールまで独走した。ところが、外国籍選手のバルデスとジョルジーニョが骨折して長期欠場を余儀なくされる。戦力ダウンの影響から第4クールで1勝しかできなかった。結局、前年よりも順位を下げて5位でフィニッシュする。三浦は昇格できなかった責任を取って解任される。監督が何人か変わっていくが昇格はできないまま、再び2004年に三浦へ監督の要請がある。

佐久間はその時の事情をこう話した。

「その時まで僕は、いろんな人の力に頼っていたんです。でもこうなったら、自分でやった方が早いと思った。自分でいろいろなことを決めていく。監督を選ぶ時、三浦君に対しては賛成する人が少なかった。ただ僕は不退転の決意で臨んでいました。2001年に三浦君が成功しない時の理由をみんな分かっていないんです。補強したバルデスとジョルジーニョがケガをした後、外国籍FWを補強していない。チャンスがあっても昇格できなかったのは三浦君のせいじゃない。それにあの時、僕はコーチをしていたんですが……。三浦君に無責任な発言をしたことがあり、心底彼を支えてあげることができなかった」

ここで佐久間が語った「無責任な発言」とは?佐久間は三浦の采配に「ピムだったらこうだった」、練習内容に関しても「ピムは違っていた」とことごとく反目していた。

「ピムがやっていたことを理解しているのは『一番近くにいた自分だ』という自負がありました。だから『ピムだったら』と文句を言うようになってしまった。僕は、自分が監督にでもなったような気になっていたんです」

そう過去の自分を戒めた。

1993年にJリーグが始まった当時、JFL(日本フットボールリーグ)でNTT関東サッカー部は最下位のチームだった。プロ化に参画するまでプロ選手はゼロで外国籍選手もゼロ。そういうチームが、2004年にJ1リーグに昇格する。そうした背景を胸に、佐久間は次のように話した。

「僕は、自分が考えてきた、『こういうやり方をすればプロになれるんだ』ということを示したかった。ある意味で自分自身への挑戦でもあった。お金だけじゃなくて、哲学をしっかりと持っていれば、いろいろなことを乗り越えていけるんだ、お金で解決するようなビジネスモデルに対して一石を投じたかった。だから大宮を強くしたかった。だからあの当時、三浦君よりも誰よりも、僕は『強くしたい』と願っていたんです」

2004年シーズンは、再び三浦を迎えてJ1へのチャレンジが始まる。佐久間は2001年シーズン、コーチであった自分も三浦を解任に追い込んだ責任があるのではないかという自戒の念があった。だから再登板することになった三浦のサポート役に徹する決意を決める。

「昇格しなかったら、僕が辞めます」

佐久間は大宮経営陣を前に、自身の覚悟を表明した。

当時、大宮の代表だった中村 博だけが佐久間を擁護した。

「お前は正しい。三浦を信じよう。佐久間、俺は、お前を支える」

佐久間は、三浦の2度目監督就任で、スポンサーや選手やサポーターが「また三浦か……」と懐疑しないように、チームのベースとなる選手は残し、久永 辰徳など何名か新しい選手を加入させた。そうした中でサンフレッチェ広島が、ディフェンスの要であった奥野 誠一郎にオファーを出す。奥野の広島行きがほぼ決まりかける中、佐久間は必死で奥野を説得した。佐久間はいまでも奥野には感謝していると言う。「あの時、彼が抜けていたら守備が破綻していたからね」。

J2からJ1に昇格した日、佐久間は冷静だった。彼は、ずっと空を見上げていた。

「泣いていました。空を見て、涙が止まらなかった。昇格したこともそうですが、何よりも、翌日にゼロ提示する選手を3分の1決めていましたからね。試合の後、みんなでビールかけをしたんですが、そこでも泣いてしまいました。かわいそうでね。僕には全ての選手を留める権限がない。1998年の苦楽をともにしてきた選手たちだったんでね」

そして2005年、大宮はJ1の舞台に立つことになる。

川本梅花

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