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【ノンフィクション】ヴァンフォーレ甲府 社長 佐久間悟 ―人生のすべてをサッカーに捧げる― 【無料記事】

目次

J1三カ年計画

ロバートの監督就任と解任

残留争いの中で監督に就任

大宮に別れを告げて甲府に旅立つ

J1三カ年計画

2005年、大宮は、J1の舞台に立つ。佐久間悟は、過去の降格チームの状態や戦力を徹底的に分析する。どうやって体制を整えたら、降格しないチームを作れるのかを考えた。

「強力なストライカーがいないチームは、降格しています。あとは、練習環境の悪いチームですね。J2からJ1に昇格した1年目のチームは、いい選手が獲得できていない。だから、実力のある選手を入れるように動いたんです。クリスティアン、桜井直人、藤本主税がそれに当たります」

この年に、「J1三カ年計画」を立てる。1年目は勝ち点39で残留が目標。2年目が勝ち点45で7位以内を目指す。

2006年になって波戸康広や土屋征夫などの大型補強が行われる。当時の東京ヴェルディ1969(現東京ヴェルディ)と柏レイソルがJ2に降格したので、移籍金がかからない選手がいたことが大型補強に繋がった。

「対戦相手を分析すると、グループが大きくて個が固まっている鹿島アントラーズやジュビロ磐田には、手も足もでませんでした。というのは、個が小さい大宮は、グループでまとまっても、そうしたチームに勝てないことになる。それで翌年は、個を大きくしようということで、個の大きい選手を取りに行ったんです」

波戸以外の獲得候補として交渉した選手は、明神智和、坂本将貴、古賀正紘だった。実は、ワシントン獲得がほぼ決まっていたのだが、最終的に破談になった。佐久間が主体となって選手を補強して、三浦俊也監督が、指導力を発揮する体制が整った。しかし、強力ストライカーとしてワシントン加入を想定していた2人には、「ストライカーさえハマってくれれば」との思いがあった。

佐久間は、このシーズンを振り返って、「どうしても点が取れなかったので、守備する時間を選手たちに長く求めるようになってしまいました。僕自身は、2005年からアタッキングサッカーにどんどんシフトしていきたかったんです。ただ、日本の指導者は、今でもそうなんですけど、前からプレッシャーをかければ攻撃的なんだ、という考え方を持っている人がたくさんいる。僕からしてみると、それは間違っている。僕が考えているサッカー観とは違うんです。サッカーは、カウンターもあればポゼッションもある。ボールを奪う守備もあれば、ゴールを守る守備もある。だから、前からプレッシャーをかければ攻撃的なんだとは一概に言えない」と話した。

ロバートの監督就任と解任

2年連続して下位に甘んじた大宮に、ピム ファーベークの弟のロバートが、2007年のシーズンから監督に就任した。しかし、ロバート就任まで紆余曲折があった。当時、クラブが監督に指名したのは佐久間本人だった。「その時のクラブの予算が厳しく設定されていたこともあって、ある程度お金を出してどこからか監督を連れてくるのが難しい状況にあったんです」と語る。佐久間は、三浦が解任される時、「強化部長を辞めたい」と社長に伝えた。佐久間の頭の中に「大宮でのミッションは終わった」との考えが巡った。大宮をJ1に昇格させた。世話になった中村維夫や石原廣司への恩返しができた。そうした想いが芽生えはじめた。

「三浦くんの解任も予算的なことがあったので…。三浦くん本人も『もう大宮でやれることはやったから』と話していましたから。ともかく、次の監督は年俸が安い監督じゃないと呼べないチーム事情でした。そんな中で、大宮の今までの伝統とか、いろんなコンセプトを継承しようと思ったから、次を託せる監督が見当たらなかったんです」

そうした暗中模索の中で、佐久間は樋口靖弘のことを思い出す。2人はS級ライセンス受講の時の同期だった。佐久間は、樋口がアタッキング論者なのでチームに攻撃的な側面をもたらすことができると考えた。しかし、樋口は山形との契約を終えていた。

「J1の経験があって、大宮のサッカーを継承できる人。なおかつ年俸が安い人。こういう条件をクリアできる人なんているわけないじゃないですか。大宮の予算は24億円くらい。三浦くんに払っていた給料は、Jでも一番安かったんです。2005年度J1で人件費が一番安い。三浦くんが2年目の時は、下から4番目。次の年は下から7番目でした」

当時、リトバルスキーを監督にする案もあった。しかし、彼が「チームにブラジル人がいるとやりにくい」というので、監督の話はなくなった。最終的に、ピムの弟のロバートが監督に就任した経緯を次のように話す。

「あの頃、ロバートはオランダサッカー協会から派遣されてシンガポールにいたので、そことの契約が残っていたんです。困っていたら、ピムから『違約金を払う』と提案されました。驚きました。ピムは『佐久間へのプレゼントだ。困っているんだろ』と言ってくれたんです。それで、ロバートがフリーになれて大宮に来れたんです」

佐久間は、ロバートのサッカーを「やろうとしたことは間違いではなかった」と述べた。得点力アップのために、韓国Kリーグの得点王のストライカーと契約寸前までいったが破談する。

「ロバートは、すべてを理解した中で大宮に来てくれた。でも、2007年のクラブは厳しい状況で、僕は経営者を守ったという自負はあります。そういう気持ちが強かったですね。ただし、選手を犠牲にして、残留争いに選手を巻き込んでしまった。最後の最後までロバートを守りたかった。でも、成績が上がってこなかった」

ロバート解雇までの経過を、佐久間はゆっくりと語り出す。それは、サテライトのレッズ戦での敗北の後の出来事だった。ロバートは、試合後に家族と談笑しているのを見かけてしまう。

「僕は、チームの状況を理解して監督を引き受けてくれたロバートやピムには恩義があった。けれども、サテライトでの浦和戦後のロバートの表情を見て、彼は所詮出稼ぎだったんだな、と一瞬にして冷めてしまったんです。僕は、『人生をかけて大宮を守ってきたんだ』と叫びそうになりました」

佐久間は、その夜に社長に電話して「僕に監督をやらせてください」と嘆願する。以前、ピムは「佐久間、デッドラインが必要だ。すべてを崩壊させちゃいけない。リセットしちゃいけないんだ。あるものは、ここまでと決めなさい。ここまでだというデッドラインを決めなさい」と話したことがあった。佐久間は彼の思い出す。また、ロバートのキャリアをこれ以上傷つけないように、と解任の決断をする。

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