川本梅花 フットボールタクティクス

三浦俊也(FC岐阜監督)【ノンフィクション】プロでの選手経験がない人が監督になって経験したこと(第1回)【無料記事】

目次
はじめに
ドイツサッカーとオランダサッカーの狭間で
コーチから監督就任のオファー

第1回

はじめに

三浦 俊也がFC岐阜の監督に就任した。2014年からベトナムA代表とオリンピック代表監督を兼任して、その後2019年までクラブチームで指揮を執る。2011年にヴァンフォーレ甲府の監督を務めて以来、日本サッカー界への復帰は11年ぶりになる。三浦がどんな人物でどんな考えを持っているのかを知るサポーターが少ないと思われる。そこで、2009年に取材した内容をもとに、ノンフィクション形式で掲載することにした。今回の文章は第1回であり、数回続くことになる。このテキストが、FC岐阜での三浦のサッカーを観戦する手助けになれば幸いである。

三浦俊也氏、FC岐阜監督就任(チーム統括本部長兼テクニカルダイレクター退任)のお知らせ

ドイツサッカーとオランダサッカーの狭間で

三浦俊也は、ドイツでサッカーライセンスを取得するためにケルンスポーツ大学に留学した。ドイツ式サッカーのイロハを学んだ三浦にとって、大宮アルディージャでのピム ファーベックのオランダ式サッカーとの違いに最初は戸惑った。

「大宮でピムと関わった時に、ドイツで学んだサッカーとの違いをものすごく感じた。何て言うか…サッカーに対しての関わり方だね。ドイツとオランダは、とものライバルという意識がある。日本と韓国が試合をするようなもの。そういう関係があるので、ドイツ人は勝負にこだわる。勝つことにこだわるんだ。どちらかと言えば、オランダは、いいサッカーをすることにこだわる、という感覚を持った」

「オランダは、いいサッカーをするのにこだわる」と言った三浦の言葉は、ピムが大宮に植えつけたサッカー感にぴったりと当てはまる。オランダ人にとっての、特にピムの世代にとっての「いいサッカー」とは、名将リヌス ミケルスによって具現化された「ポゼッションが流動的で、なおかつ全員攻撃全員守備」と謳ったトータルフットボールを意味する。そして、ピム自身は、トータルフットボールの発展形と呼べるポゼッションフットボールを大宮に根づかせようとした。

当時、マンツーマンの守備で堅く勝ちを拾うドイツサッカーを、現地で学んできた三浦にとっては、攻撃面をピムによって植えつけられる。ピムのサッカーに出会った時を回想して三浦は、「刺激的で衝撃的だった」と話す。さらに、「ドイツ人があまり気にしないような、ボールをどこに止めてどうやって運ぶのか、そして、どこでフィニッシュするのかを考えさせられた。ピムは、攻撃にためのロジックがある人で、なおかつそれを選手に『実践でやれ』という人だった。それがものすごく厳しくて…俺の厳しさなんか目じゃないよ(笑)」と当時の衝撃を克明に話す。

大宮は、1999年にJ2リーグに参戦してアマチュアからプロフェッショナルに転換する。しかし、選手の身分は、アマチュアとプロの混合で、彼らの精神もアマチュアなのかプロなのかの区別が明確につけられない時期だった。それは、選手の日常生活に関しても言えることである。プロとしての自覚が持てない選手たちの行動が目立った。さらに、選手はプロの監督のもとで指導されたことがない。そうした環境の中で、ピムの指導は刺激に満ちた日々である。

「やっぱり選手もピムの指導の下『初めてサッカーを教わった』という感覚があったんじゃないのかな。だから、選手もピムを慕っていたと思うよ。オンとオフの使い方もピムはうまかったから。トレーニングもゲームを中心にやる。ボールポゼッションという考え方だって、僕らにとっては新鮮で、鮮明だったということだ。まあ、彼の指導は、本当にものすごく厳しかったけどね」と三浦は語る。

三浦は、インタビューの中で何度も「厳しい」との言葉を使った。ピムの厳しさにはどれくらいの迫力があったのだろうか。

「いやー、それは…ミスしたら絶対に許さなかった。特に『プロ』という立場に対して、『プロはこうあるべきだ』というピムの考え方が僕には宿されたね。当時は、アマチュアとプロとが混在したチームだったから、『もしプロを目指すならばもっと志の高い選手を目指せ』と話していた」

ピムは、選手にミスがあると紅白戦の試合中でもゲームを止めて、選手を呼び寄せて怒鳴りつけたという。特に、大学卒まもない斉藤 雅人は、もっともピムの逆鱗に触れた選手だと言う。斉藤は、足元がうまい選手だと見られていた。頭の回転が早く、ピムに言われたことはすぐに理解してそれを実践できる選手だった。だから、ピムにとって期待の若手だったため、斉藤がミスをした時は、ほかの選手よりも厳しく対処したようだ。

ピムの怒りの矛先は、選手だけでなくコーチにも及んだ。ある試合でパフォーマンスが落ちたので交代してベンチに引き揚げる斎藤に、1人にコーチが軽く肩を叩いてから握手を求めた。コーチが選手を労うよく見かける光景だ。しかし、握手を求めコーチの行為を見たピムは、「お前何やってんだ!こんなプレーしかできな選手に。ふざけるな!握手なんてするな!」と大声で怒鳴り散らす。別の試合では、チームが敗れて選手が戻ってくると、すぐに選手とコーチを控室に集合させる。そして、ミスした選手の前に立ってピムはこう叫ぶ。

「お前のせいで試合に負けたんだ!このアマチュアが!」

こうしたピムの厳しい対応や激情する性格は、オランダ人特有のものではない。ピムは、極端に厳しく感情豊かな表現の持ち主だった。ある時、オランダ人の選手をピムが連れて来たことがあった。その選手は、ピムの指導にびっくりしていたと言う。

彼は三浦にこう話し出した。

「ピムがあんなに厳しい人だとは思ってもいなかったよ」

「オランダ人はみんなあんなに厳しい指導をするのかと思っていた」

と三浦が答えると彼はこのように返事をした。

「いやー、ピムは特別に厳しいんだ。オランダ人の指導者がみんな彼みたいではないよ」

厳しさはピム個人の性格によるものだった。

コーチから監督就任のオファー

ピムは、チームに漂うアマチュアの雰囲気を一掃したかった。そのために大宮はピムを招聘したとさえ言える。ピムが来日した当初、練習着が各自バラバラだったのを見て、「なんだこれは!?」と言って、すぐにクラブに掛け合って統一させた。「プロとはこういうものだ」という理念を「大宮に叩き込んだピム」を思い出して、三浦はコーチから監督に就任した時のことを話し出す。

「僕が監督になって自分を振り返った時、僕自身ピムの影響は大きかったんだけど、逆にやりづらいなというのが最初に抱いた印象だった。まあ、いい監督の後は難しいよね。もうひとつ、コーチから監督になったこともやりづらさがあった。それはそうだよね、今までコーチ」として選手と対応してたのが、『さあ、次の日から監督になりました』と言われても選手もいろいろ考えるだろうからね」

三浦が監督に推薦された理由は、ピムのサッカーを継承することにあった。当時、チームを総合的に見ていたの清雲 栄純は、「ピムのやっていたことをそのまま継続したい」と言って三浦に監督のオファーがされた。

2000年のシーズンが、三浦にとって大宮での最初の監督生活になる。翌2001年シーズンまで2年間、監督を務めた彼は、オランダ式のピム・サッカーの継承とドイツ式の自分がやりたいサッカーとの狭間で試行錯誤を重ねる。「4-4-2」のラインディフェンスをそのまま続けることが、チームにとっていいのか、それとも三浦自身にとって得策なのか、という懐疑だった。

「最初は継承ということだったので、自分でどうすればピムのやり方を継承できるのかを追求した。ピムが監督の頃、勝っている時期と負けている時期があったので、勝っている時期のサッカーを続けるようにした。だから、それなりの成績が数字で示せた。結局、コーチの時にベンチにいて『こうすればいいのに』と思っていたことを実践したんだよ。『このやり方で勝っていたな』と振り返って試合にはめていったら、あっと言う間に1年が過ぎていった」

ピムは、就任当初、それなりの結果を出したのだが、次第に相手チームがピムのやり方に対策をしてくる。大宮は、パスを回すサッカーをやっていたので、相手は我慢して前に出てこない。カウンターを狙えるチャンスが来るまで、相手は無理して前係にならずに待つようになる。それによって、ピムの大宮は勝てなくなっていく。三浦はその時のことを「大分に0-5で負けた試合があった。それでもう、やり方を少し変えないといけなくなった。それにはピムも納得せざるを得ない。やり方に変化をつけたら、また勝てるようになった」と話す。

どのようにやり方を変えたのか? 三浦によれば、「ディフェンスラインを下げて守るやり方に変えた」と述べる。あえて守備的な時間を増やすことで、相手がそれに焦れてミスをしたり、スキを見せたりした瞬間に一気に攻め上がった。相手の陣形が整えられる前にボールをゴール前に運ぶ。それによって、得点機会が増えて勝点を積み重ねられた。

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