サッカー番長 杉山茂樹が行く

アジア枠8.5の時代を迎えた日本代表が、サスティナブルではない論理的に破綻した集団になる可能性

写真:Shigeki SUGIYAMA

 サッカー界において、選手の生活を日常的に支えているのはクラブチームである。代表サッカーあってのクラブサッカーか、クラブサッカーあっての代表サッカーかと言えば後者。ほぼ1ヶ月に1試合の割合で行われる代表サッカーありきでは、サッカー界は成立しない。

 筆者がクラブサッカーの偉大さを実感したのは1990年代前半の欧州で、日本で欧州型のクラブ社会を目指してJリーグが発足した時期と一致していた。それから30年。日本社会もJリーグを通してそれなりに欧州化した。Jリーグの存在価値も年とともに上昇していったが、欧州に追いつく目処は現在、立っているかと言えばノーだ。100年構想という壮大な夢を掲げてスタートしたJリーグだが、もはや70年しか残されていないという感覚だ。

 日本の現状は日本代表中心主義だ。代表サッカーあってのクラブサッカーという構図である。最大の関心事は4年に1度のW杯。W杯中心主義と言い換えてもいい。日常に限れば、欧州の方が相変わらず面白そうに見える。そこで展開されるチャンピオンズリーグを頂点とするクラブサッカーが、我々の目には眩しく映る。選手たちも我々と同じであるに違いない。でなければ、Jリーグで評価を確定させた実力者のみならず、高校を卒業したばかりの若手選手まで、せっせと欧州に渡っていく理由は見当たらない。

 欧州組の数は60人以上にのぼる。現日本代表選手の約8割がこの中に含まれている。代表チーム内で欧州組の占める割合は増すばかりだ。

 しかし、日本代表が欧州で戦う機会はわずかである。それは日本のサッカー産業が代表チーム中心に回っていることと深く関係する。商売上のうま味がたっぷり含まれているホーム戦に対し、アウェー戦はその種の魅力がほとんど存在しない。日本がホーム戦過多に陥る理由であり、欧州でアウェー戦が行われにくい理由である。欧州組にとってこれは移動距離の時間が増すことを意味している。

 ユーロ、W杯に次ぐ第3の国別対抗戦として、欧州にネーションズリーグが発足したことも、欧州勢と試合が組みにくくなった理由だ。欧州勢が欧州勢同士でしのぎを削るシステムをより充実させたことで、他の大陸の国々は彼らと国際試合を組みづらくなった。日本のホーム戦過多に拍車は掛かるばかりだ。日本代表が行う純然たるアウェー戦は、W杯予選のアウェー戦ぐらい。この現実に筆者は構造的な問題を覚える。

 本場欧州から見て日本は極東だ。欧州から最も離れた国になる。極東と言われる所以である。代表戦のたびに帰国と渡欧をくり返す欧州組は、世界で最も大移動を強いられる選手たちになる。冒頭でも述べたとおり、選手にギャラを支払っているのはクラブ側だ。一方、日本のサッカー協会から選手に支払われる額は驚くほど少ない。お金のため、生活のためにプレーするクラブに対し、代表活動の目的は名誉のためにあると言われてきた。しかしこのご時世、その一言で片付けていいものだろうか。違和感を覚えずにはいられない。

 構造として、代表チームを編成するサッカー協会は、その都度、選手を各所属クラブからお借りしている状態にある。逆に各所属クラブは、選手を代表チームに無料で貸し出している状態にある。

 その選手が代表戦で怪我する可能性、欧州組の場合は時差を伴う長旅で、コンディションを崩す可能性は大いにある。代表戦は所属クラブの理解なしには成立しない。選手にも、代表チームの活動に参加している間に、所属クラブでポジションを奪われる不安が付いて回る。名誉を最大の動機に代表チームへ参加することに無理を感じる。代表チームにまつわる仕組みが、とりわけ日本の場合、持続可能な在り方には見えないのだ。

 お国のためにとか、日の丸を背負って戦うからにはとか、代表のユニフォームに袖を通したからにはとか、そうした言い回しを見聞きする回数が減っているが、完全に消滅したわけではない。たとえば選手が代表招集を辞退したとき、欧州ではファンから非国民呼ばわりされるムードはない。あり得ない話であるのに対し、日本ではまだまだあり得る話になる。

 先の東アジアE1選手権に、日本は国内組で臨んだ。規定で欧州組を招集できなかったからだが、筆者の目には、W杯の最終メンバーに食い込んでもおかしくない選手が思いのほか多数、目に付いた。海外組と国内組。その差は紙一重。国内組は別名、欧州組予備軍である。当然といえば当然だが、森保監督は自分の目以上に欧州組か否かを意識する。選手を欧州組にしたのは森保監督ではない。他者の評価によるものだが、森保監督はそれに頼るように選手を招集する。

 筆者の偏見ではない。国内組は実力の割に冷遇されてきた。今回は4ヶ月後に開催されるW杯本大会に滑り込む、国内組にとってはラストチャンスだったので、モチベーションはそれなりに高かったように見える。

 その最終戦の韓国戦で、宮市亮は右膝前十字靱帯断裂という深い傷を負った。元欧州組。日本には数少ないチャンピオンズリーガーでもある。

 宮市の怪我の原因となる接触プレーに及んだ韓国DFを悪く書いた記事を見たが、代表選手はクラブチームからの借り物という概念に基づけば、招集した森保監督、及びサッカー協会は、宮市が所属する横浜F・マリノスに深々と頭を下げなくてはならない。

 東アジアE1選手権を戦った国内組の中から、W杯の最終メンバーに何人加わることができるか。その数が多いほどチームに勢いが生まれると筆者は考えるが、巷では数名程度に終わるだろうと言われている。つまり狭き門だった。森保監督側の完全なる買い手市場だったわけだが、にもかかわらず、選手及び各クラブは招集に素直に応じた。森保監督はそうした思いに対して、キチンと対応しただろうか。

 韓国戦。見過ごすことができなかったのはその選手交代の遅さになる。2-0とする駄目押しゴールが生まれたのは後半19分で、相手の戦意を喪失させる3点目のゴールが決まったのは後半27分だった。ところが、森保監督の交代は、1人目が後半14分(水沼宏太→宮市)で、2人目と3人目が後半33分(西村拓真→脇坂泰斗、宮市→森島司)、さらには4人目と5人目の交代は後半42分(藤田譲瑠チマ→橋本拳人、相馬勇気→満田誠)だった。2人目以降が決定的に遅い。橋本と満田が投入された後半42分は、3-0とした15分後で、残り時間3分という段だった。

 時はコロナ禍で、実際に大会期間中に陽性判定となった山根視来はリタイアすることになった。選手はそうしたリスクを覚悟の上で代表チームに参加してきたわけだ。森保監督は、にもかかわらず、選手に対してサービス精神の欠片もないガチガチの交代をした。

 この東アジアE1選手権に限った話ではない。たとえば2019年10月に行われたW杯2次予選。そのモンゴル戦、タジキスタン戦の2連戦において、森保監督はマジョルカでスタメン争いをしていた久保建英を強引に招集したのはいいが、実際に使ったのはタジキスタン戦の3分だけだった。所属チームを10日以上空けさせておきながら、この有様では選手は浮かばれない。高姿勢な起用法とはこのことだ。久保はその結果、成長しただろうか。

「先を見越して戦うことはまだできない。世界の中で日本が勝ち上がろうとした時、1戦1戦フルで戦いながら次に向かっていくことが現実的である」とは、東京五輪後の会見で、なぜ選手をローテーションで起用しなかったのかと言う質問を受けた際の森保監督の返答だ。田中碧や遠藤航を使い詰めにする一方で、三笘薫や前田大然らを積極的に起用しようとしなかった森保監督。2017年のアジアカップなどでも、特定の選手を使い詰めにする無理を感じさせる強引な、まさに持続可能ではない采配をみせている。

 一見、控え目そうに見えるが頑固で居丈高。平等で民主的に見えるが、横車を押すような強引さも目立つ。今日的か旧態依然かと問われれば後者だ。

 W杯はご承知のように、次回2026年大会から48チームで本大会が開催される。アジア枠も現行の4.5から8.5に増大する。日本が本大会出場を逃す可能性は5%にも満たないだろう。アジア最終予選でも国内組で十分対処できる。欧州組を招集する必要性はなくなる。だが、森保的な思考の監督が次期監督に就任すれば、可能な限り欧州組を招集するだろう。

 だが、欧州組にとって、アジアの弱者と対戦するために、日本と欧州を往復することほど、しんどいものはない。

 代表チームの在り方について根本的な議論をする時を迎えている。日本代表中心主義の限界が見えてきている。筆者にはそう思えてしかたがない。このままではサスティナブルな集団ではいられない。

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