フットボールカンボジア

カンボジのサッカーを理解する。近代史とサッカー。

カンボジアのサッカーはまだカンボジアがフランスの統治下に置かれ、フランス領インドシナと呼ばれていた1933年にサッカー協会(Football federation of Cambodia(FFC))が設立された事で正式にその歴史をスタートさせた。

 1953年に、シハヌーク殿下の指導の下にフランスからの独立を果たし、カンボジア王国が誕生。同年FFCも国際サッカー連盟(FIFA)に加盟、1957年にはアジアサッカー連盟(AFC)にも加盟を果たした。独立直後のカンボジアは近代においてもっとも進歩的な時代だったと言われており、当時シンガポールのリークアンユー首相もカンボジアの繁栄ぶりを羨んだという逸話が残っている。そんな安定した成長の中でサッカーも王国に広く普及していった。

 しかし、安定の時は長くは続かなかった。東西冷戦の深刻化とベトナム戦争の煽りから国内情勢が不安定になり、1970年にはロンノル将軍のクーデターが発生、シハヌーク殿下が失脚し政権が崩壊すると、カンボジア王国はクメール共和国へと名前を変えた。これ以降、カンボジアは混乱とクメールルージュ政権による破壊の時代へ突入して行く。サッカーも同様でクメール共和国時代の1972年にAFCアジアカップでの4位を最高位として、国際大会から姿を消すことになる。

 1976年、シハヌーク殿下の援助を得たポルポトが指導するカンプチア共産党(クメールルージュ)を主流とするカンプチア民族統一戦線がプノンペンを陥落させロンノル将軍からその政権を奪うとカンボジアは民主カンプチアと再び国名を変えた。クメールルージュは中国の毛沢東の影響を強く受け、原始共産主義を実践し、国の根幹となる「制度」「文化」「通貨」の3つの分野に徹底的な破壊をもたらした。加えて、農業生産のみを重視する政策がとられ、国民は農村へ強制的に移住させられ、知識者層は迫害の対象となり多くの知的財産と命が失われた。クメールルージュは1979年1月7日にベトナムの支援を受けたカンプチア救国民族統一戦線によって首都プノンペンを奪われタイ国境へ撤退、約3年半に及んだ破壊と虐殺の時代に終止符が打たれた。カンボジアはその後、カンボジア人民共和国、カンボジア国と名前を変えたが、クメールルージュによる抗戦や反ベトナム勢力によるゲリラ戦などがカンボジア全土で続く内戦状態へと突入した。

 ロンノル将軍のクーデターによる混乱から20年を経た1990年6月、東京にて「カンボジアの和平東京会議」が開催され、カンボジアはようやく和平に向けて動き出す。翌年1991年10月23日にはフランスのパリで「カンボジア和平パリ国際会議」が開催され、カンボジア国内に存在した4派閥の代表者が内戦終結に向けた最終合意文書に署名し、カンボジアの混乱に終止符が打たれた。この最終合意文書締結を受けて、国連はPKOをカンボジアで展開する事を決定、1992年には国際連合カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が設置された。

 1993年にはUNTACの監視下で第一回国民議会議員選挙が行われ議会制民主主義体制となった。また、同時に立憲君主制が採用され、シハヌーク殿下が再び国王に即位した。カンボジアは国名をフランスから独立した1953年に定めたカンボジア王国へと再び改め、国旗も独立当時と同じデザインのものが再び採用された。その後カンボジアは紆余曲折を経て日本をはじめとした国際社会の援助を得ながら、復興の道を歩みはじめ、1998年には東南アジア諸国連合(ASEAN)へ加入を果たした。これを受けて、FFCもASEANサッカー連盟(AFF)へ加盟を果たした。長い間、参加することが叶わなかった国際大会へもフランスW杯1次予選への出場を持って復帰を果たした。結果は1次予選敗退だったがクメールルージュ政権下で多くのサッカー指導者と選手を失ったカンボジアが再び国際大会の場に出場した事は非常に大きな意味を持つものとなった。その後、カンボジアは2018年のロシアW杯予選では2次予選に進出、世界にカンボジアと王国のサッカーが復興を果たした事を強く印象付けた。

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