【サッカー人気1位】【トピックス】誰もが使いやすい長く愛さ…

「ファジラボ」寺田弘幸

【過去の人気記事を無料公開】/【妹尾隆佑ドキュメント】『岡山で生まれた稀代のドリブラー 25歳で現役を引退をした真意』

Jリーグの再開を待つことしかできない今の時間を、ゆっくりと過去を振り返る時間にあてるのもいいのではないか。そう思い立ったので、過去の人気記事を無料で公開していこうと思います。少しでもお楽しみにいただけたら幸いです。

第一弾は、妹尾隆佑のドキュメント。

2012年にメールマガジンの配信をスタートした『ファジラボ』が独占インタビューを行わせてもらい、2011年をもって現役引退を決意してアカデミーコーチとして新たな道を歩み始めた妹尾隆佑に迫った長編コラムです。

引退理由となったケガとの過酷な戦いが主な内容ですが、J2参入したばかりの話も盛り込まれていますので、当時からファジアーノを追い掛けている方には懐かしく、近年にファジアーノを追い掛けるようになった方には新鮮に感じてもらえるのではないかと思います。

僅か4年間という短い期間(2013年に現役復帰するミラクルが起きたので実質は7年間の現役生活)、岡山出身のアタッカーがファジアーノの攻撃をけん引していた時代があった。そのことを記憶にとどめておくためにも、ぜひご覧ください。

僕自身も若いため読み返してみると暑苦しい文章だなと思いますが、その点はご容赦くださいませ(苦笑)。

 


突然の引退発表から4カ月

昨年の12月25日。クリスマスの日にクラブの公式ホームページに一つのニュースが掲載された。
『妹尾隆佑選手引退と普及コーチ就任のお知らせ』
驚愕だった。妹尾がケガと戦ってきたことは知っていたが、まさか引退を決意させるほどだったとは。
「ひざの怪我をしてから、痛みに耐えながら戦ってきましたが、限界を感じ、この度引退することを決意いたしました。」
僅か一行で語られた引退理由。サッカーを愛してやまない妹尾が25歳で引退を決意することとなった真意がどうしても聞きたくて、僕はインタビューを申し込んできた。

妹尾がスクールコーチとなって3カ月が経とうとしている4月の下旬にインタビューは実現した。ドレミの街の屋上にあるフットサルパークの傍らにあるベンチに腰掛け、晴天の下でインタビューは始まった。「こんなところでいいんですか」と僕に気を使うところや、細々とした体つきは現役時代とまったく変わらない。
ただ、妹尾の表情は明るく、とても生き生きとしているように感じた。

引退の理由

どうやって質問を始めようか。当日まで悩んでいた。もう過去は思い出したくないかもしれない。ただ僕には正面からぶつかっていくしか手がなく、余計な遠回りはやめ思い切って質問をぶつけた。
「引退の理由は何だったのか?」「引退を決意させるほどケガとの戦いは過酷だったのか?」
妹尾は「ケガです。それがすべてです」と話し始めた。

「サッカーが好きだったんで、ケガがなかったら何歳まででもやりたかった。(クラブから)ダメと言われてもできるところで続けたいという想いがあったんですけど、ケガがあったから」
去年は2カ月弱の間をリハビリで休んでいた時期があったものの、主力選手として活躍した。だが、ずっと痛みと戦っていたという。
「去年はずっと痛かったです。プレーしていれば徐々に徐々に悪くなっていくんです。踏ん張れないから誤魔化しながらプレーしていた部分もあったので、僕自身でも情けなくて、つらかった」

妹尾は僕ら記者陣の前ではケガで本来のプレーができないことを話さなかった。リハビリを終えてチーム練習に戻ってきた時に膝の状態について質問をすると、「痛みはありますけど大丈夫です」と妹尾は言った。ケガについての話を敬遠しているように感じていたので、僕も深くは詮索しなかった。妹尾は嘘をつけない性格だ。いつも正直に人と向き合うが、プロフェッショナルとしてケガのことだけは嘘をついていた。

「やっている以上は言い訳できないですし、言い訳をしたくなかったので意地でもやり切ろうと思っていました。痛いのは当然という感じだったんですけど、これはどうしようもないなという想いもあった。ただ、言っても言い訳にしか聞こえないし、やっている間は言わないと自分の中で決めていました。引退してからカンスタで運営の手伝いをしていたら、『ケガをしていたのに走れとか勝手に言ってごめん』ってサポーターの方に言われたことがあるんです。それが当り前じゃないですか。そう言われた時はなんて言えばいいのか分からなかったです」

プロとしてピッチに立つ以上、「ケガしているから仕方ない」では通用しない。ポジション争いをしている選手たちにも失礼であり、応援してくれるファンに対しても失礼だ。だから妹尾は痛みと戦っていることを誰にも口にすることなく一人で戦っていた。想像を絶する過酷な戦いを。

大学1年生の時に負った左膝の半月板損傷

妹尾を苦しめてきた膝のケガは、左膝の外側半月板。大学1年生の時に紅白戦で接触プレーによって半月板を7割除去する手術を行った時からケガとの闘いは始まった。

半月板とは膝関節の間でクッションの役割を果たし、膝の円滑な運動を助ける働きをする軟骨組織のことをいう。半月板は血管分布が乏しいために縫ってもくっつかないままの状態がほとんどで、手術しても治ることはない。今の問題を軽減してリハビリ行いながらうまくつきあっていく方法を見つけていくしかない。妹尾の左膝は手術をしてから約4年間ほど痛みを起こさなかったが、少しずつ、少しずつ、摩耗していた。

「大学一年生の時の試合中にぶつかられて変な踏ん張り方をしたんです。膝がぐにゃぐにゃになってちゃんと歩けない感じでした。ただ、その時に手術をしてからファジアーノに入って2年目の終わりまではまったく痛くなかったんです。踏ん張ることもできるんで忘れているくらいの感じだったんですけど、2年目の終わりくらいに水が溜まりだした。『えっ〜』ってなって手術したんですけど、場所が難しいところだったので・・・」

09年の秋に診断を受けた時、『もうサッカー選手としてプレーを続けるのは難しいかもしれない』と告げられたという。妹尾は言葉にならない衝撃に襲われた。
「サッカーを辞めるなんてまったく考えてなかったし、頭にもなかった。だから自分の中にすごいことが起きたんです。どんな感情かうまく言えません。悲しいを通りすぎてました。それからはあんまり考えないようにしてましたけど、いつかは、というのは頭の中にずっとありました」

ファジアーノがJ2の2年目を戦う2010年シーズン、妹尾はずっと治療とリハビリの日々を送った。再手術も受けたが、明るい光りは射してこなかった。
「本当につらかったです。復帰できるのか自分でも疑問に思っているくらいで、治るのかどうかも分からなかった。その時期ですね、ケガさえしていなければっていう気持ちを捨てたのは。そう思っていると余計に辛いんです。今の現状を受け止めないと次に進めなくて、その気持ちを持っていたら心が持たないのでふっ切りました。後悔してもなったことは仕方ないから、今のことだけを考えるようにしました」

覚悟を決めて戦った2011年シーズン

10年シーズンは9試合しかプレーできなかった。膝の痛みよりも心に与えたストレスの方が大きかった。妹尾がこんなことを言っていたのを思い出す。
「サッカー選手ってグラウンドの上でサッカーをするのが仕事じゃないですか。でも、サッカーができない。もうどうしたらいいか分かんないですよ」
グラウンドを走りたい。それが自分の仕事なんだ。妹尾は痛みを我慢しながらプレーすることを決断した。サッカーができる喜びのためならどんなことでも我慢できる。そう思った。

「正直、(治療法は)すべて尽くしました。僕自身もいろんな方に話しを聞いて探してみたんですけど、難しかったです。去年は毎日痛み止めを二つ飲んで練習をやっていました。じゃないと、不安もあるし、痛みもあって。痛み止めに頼って練習して、練習が終わったら冷やすんですけど、ずっと膝に水が溜まっている状態なんでパンパンになってあまり曲がらないんですよ。試合はその状態のままやって、試合が終わった次の日に水を抜きに行く。それをずっと試合ごとに繰り返していました。水を抜いたら腫れがちょっとひいて、次の日は休みなんで落ち着くんですけど、次の日に練習したらすぐに溜まる。きつかったです。痛み止めを飲み続けていたら効果がなくなるらしいんですけど、“効果はあるぞ”って自分に言い聞かせてました」

妹尾がこれほどの過酷な日々を送りながらもサッカーを続けることを選んだのは、グラウンドを走りたかったし、影山監督の下でプレーすることで新しい自分を発見し、サッカーを楽しんでいたからだった。
「去年もサッカーの楽しさを忘れることはなかったです。去年は自分の中でプレースタイルを変えていた。ドリブルで切り刻んでというプレースタイルだと踏ん張った時に耐えられなかったんで、うまく周りを使いながらっていうイメージでトップ下に入ってやっていた。そこでの新しい発見もあったので楽しかったです。チームとしても上手くいっていたし、自分たちの今までやってきたサッカーが実を結んだかなという感じがありましたから」

しかし、痛みはどんどん膨らんでいく。それでもプレーすることを決断させたのが、“今年まで”という想いが固まったからだった。
「去年の中頃くらいには。誰にも言ってはいなかったですけど、これじゃきついなと想った」。
当然、サッカーを辞める決断を下すまでは葛藤の日々だった。信頼をおける方々に相談してみても答えは見つからない。「どっちにしても、後悔もあるし、良かったとも思えるかもしれない。最終的には自分で整理して決めるしかなかった」。何度も何度も気持ちは揺れ、「続けた方が精神的には楽かもしれない」と思った。しかし、「この痛みでは続けられなかった」。決断に至ったのは夏を過ぎてからだという。そして、「今年だけはやり切ろうと決めたんです」
妹尾は8月の中旬にリハビリを終えてピッチに戻ってきた。だが、それは治療やリハビリが成功したからではなく、腹をくくっていたのだ。その後の21試合、妹尾はピッチを走り続けた。

12月3日の最終節・徳島戦。妹尾はカンコースタジアムで最後の試合を戦った。ロスタイムのゴールで劇的な勝利を奪ったスタジアムは歓喜に沸き、試合後にサポーターへ挨拶に向かう時には今季限りで契約満了となる李彰剛らが涙を流していた。
「僕も泣きたかった。でも、あいつはなんで泣いているんだってなるじゃないですか。だからめっちゃ我慢したんです。つらかったですね」。
妹尾は最後まで一人で戦い、スパイクを脱いだ。

次のページ

1 2
« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ

日本サッカーの全てがここに。【新登場】タグマ!サッカーパック