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OBに聞け!山内智裕コーチその1「(特別指定でFC岐阜に参加していた大学4年は)まあ、サッカー漬けでしたね。楽しかったですよ」【OB Interview シリーズ第2弾】

 
 FC岐阜で活躍したOBのみなさんを直撃するZoomインタビューシリーズの第2弾は山内智裕コーチ(2009/2010-2011)! まずは地元の鹿児島県で過ごした10代から、特別指定選手としてFC岐阜に参加していた2009年までの記憶を辿ってもらった。

Zoomの画面越しに山内智裕コーチ。

◆しごかれまくった高校時代

――鹿児島県で過ごしていた10代を振り返っていただけますか。

山内智裕コーチ サッカーを始めたのは3歳のとき、『キャプテン翼』の影響です。アニメの再放送を観て「サッカーをやりたいな」と思っていたのと、Jリーグが開幕する1993年前後の数年間に渡ってサッカーが賑わっていたのと。
 小学校では県大会で2回優勝して、そのチームでキャプテンをやらせてもらっていました。中学では神村学園中等部から地元の隣町にある中学校、霧島市立国分中学校の部活とスクールに入り活動を続けていましたけれども、そこでは目立った成績はなかったですね。高校は、そのスクールの主催者がコーチをやっている鹿児島城西高校へ進みました。

――一貫してプロサッカー選手をめざしていたのでしょうか?

山内コーチ はい、そのときはずっとJリーガーになりたいと思ってサッカーを続けていました。自分では憶えていなかったんですけど、周りの友だちが「卒アルにも『サッカー選手になる』と書いていたぞ」と言うので見てみたら、ほんとに書いてありました。

 で、高校1年生のとき(2003年)に2歳上の中山博貴(元京都サンガF.C.)、吉井孝輔(元湘南ベルマーレ、ロアッソ熊本、鹿児島ユナイテッドFC)のふたりがJリーガーになり、そのとき初めて“夢”から“目標”に変わったというか。それまではざっくりと、なりたい、なりたいと思っていたけど、具体的な目標に変わりましたね。なれるんだ、ならなきゃだめでしょう、と。そう思いました、高校生ながら。

――現在は高校選手権の常連校ですし、大迫勇也の出身校としても知られていますけれども、当時の鹿児島城西高校の立ち位置は?

山内コーチ 鹿実を倒して選手権にも出たことはあったんですけど、まだ強くなる前(全国高校選手権準優勝は2008年)で。ぼくが1年生のとき、2学年上の先輩たちが、プリンスリーグ九州の初代王者(2003年)になったんです。平山相太を擁する国見高校に一回も負けてなくて。でも選手権には最後、鹿実に負けて出られなかったという……でもほんとにすごかったんです、上の人たちは。

 ぼくは試合に出たくなくて、そのとき(苦笑)。なんでかと言うと、怒られるから。監督やコーチに怒られ、先輩からも怒られ……と思いながらサッカーをやっていました。

――各校からいい選手が集まってきて、チーム内のレベルが高いというのもあったんでしょうね

山内コーチ もちろんレベルも高いですし、自分のせいで罰走にでもなった日には、風あたりが強かったです。よくやめなかったものだと思います。

――そこは自分を褒めたい?

山内コーチ いやもう、夏休みなどは暑いなか朝から電車で1時間半かけて学校に行って、毎日紅白戦。開始20分で走れなくなると、「走れ!」と、こうですよ。ある日とうとう追い込みすぎて、吐くもの吐いて全身がつって起き上がれない、という事態になりました。もっとも、そこから周囲の見る目も「なかなかやるな」というものに変わりましたけど。めちゃくちゃ厳しい、とにかく走らされました。返事ははいかうんかイエスしかない(笑)

――ひと昔前だとスパルタ方式は珍しくなかったですもんね。その名残りが。

山内コーチ まあだいぶ緩くなってきたなという時代の空気のなかで、それでもそのくらいはやらされていましたからね。

◆寮生活をエンジョイ

――コーチの方の縁で、大学は東海方面に進出することになると聞きましたが?

山内コーチ そうですね、指導者間のつながりで行くことになったんですけど。東海学園大学はぼくらが行った当時、まだ愛知県リーグだったんですよ。これから力を入れていくから、

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