「football fukuoka」中倉一志

【フットボールな日々:私とJリーグとアビスパと】私とサッカー。真っ赤なユニフォームと長髪に魅せられてから半世紀

「開会宣言。スポーツを愛する多くのファンの皆様に支えられまして、Jリーグは今日ここに、大きな夢の実現に向かって、その第一歩を踏み出します。1993年5月15日。Jリーグの開会を宣言します。Jリーグチェアマン、川淵三郎」
久しぶりにアビスパの試合がない週末、オールドファンにとっては決して忘れることができない言葉を思い出しながら、ぼんやりとJリーグのことを考えてみた。あれから28年。随分と月日が経ったものだ。

私がサッカーに初めて触れたのは小学校6年生の時。なんとなく付けたTV画面に映し出された映像に引き込まれた。目に飛び込んできたのは緑の芝生の上を真っ赤なユニフォームを身にまとって走る男たちの姿。とりわけ、ビートルズのような長髪をなびかせて左サイドを疾走する選手に目を奪われた。彼の名前はジョージ ベスト。その瞬間、私はサッカーの虜になった。

新卒の先生に誘われて、毎朝のように授業が始まる前に仲間と一緒にボールを追い、メキシコ五輪で銅メダルを獲得した日本代表選手の活躍に興奮した。中学校にサッカー部がなかったため、その後ボールを蹴ることはなかったが、私をサッカーに引き込んだ三菱ダイヤモンドサッカーや、天皇杯、W杯などをTVで見てはトップレベルの選手たちのプレーに目を奪われたものだ。

ワーカーホリックを絵に描いたようなサラリーマン時代にはサッカーと疎遠になっていたこともあったが、Jリーグの開幕が再びサッカーへの情熱を思い出させてくれた。営業店から本社勤務になったことで、多少なりとも時間に余裕を持てるようになったこともあって、またサッカーにのめり込んだ。初年度はチケットが手に入らなかったこともあり、当時は珍しかった衛星放送の受信機を36回払いで購入してJリーグ全180試合を視聴。翌年からはチケット取りのコツを覚え、週末は必ずスタジアムに足を運んだ。

もちろん、サッカーそのものが好きだという理由からなのだが、それ以上にJリーグが持つ魅力に取りつかれた。劇的なゴールに見ず知らずのおばあちゃんと抱き合って喜んだこともある。開場を待つ待機列でたまたま隣に座った10歳以上も離れた高校生と何時間もサッカー談議に花を咲かせたこともある。オフ会で出会う仲間たちはJリーグに関わっていなければ決して人生が触れ合うことがなかった仲間たちだ。

1999年に社命で福岡へ帰ることになり、アビスパと関わるようになってからは「おらが町のクラブ」を「おらが町を愛する人たち」と一緒に応援する喜びを知った。スタジアムへ行く道すがら、レプリカユニフォームを着ている姿を見かけてはテンションが上がり、アウェイへの道中でネイビーのグッズを身に着ける人を見つけては勇気をもらう。そして、ホームでも、アウェイでも、スタンドに集う仲間の熱気に心が躍る。

それぞれの立場はまったく違う。サッカーやクラブとの関わり方もそれぞれだ。でも、それがいい。それぞれが、それぞれの立場で、それぞれのやり方でサッカーとクラブと向き合う。毎週のようにホームゲームに通おうと通うまいと、アウェイに行こうと行くまいと、グッズを買おうが買うまいが、そんなことはたいしたことではない。大切なのはサッカーが、おらが町のクラブが好きという想い。どのような関わり方をしようと、その想いに貴賤はない。

「スポーツが得意な人も、そうでない人も、老若男女、誰もがスポーツを楽しめる」。そんな環境を作り出すことも川淵三郎元チェアマンが目指したものだ。サッカーという共通言語が、性別、年齢差など様々な違いを乗り越えて、スポーツを核としたコミュニケーションの場を作り出すこと。それがJリーグが目指すもの。それが私がJリーグに惹かれる理由だ。

環境の変化により関わり方は変わっていくかもしれない。けれど、これから先もずっとJリーグとアビスパ福岡と一緒に歩いていくのだろうなと思う。そこは、いつも私に勇気と希望を与えてくれる場所。そして、いつも最高の仲間たちが待っている。

[中倉一志=文・写真]

« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ