群馬サッカーNEWS Gマガ

無料配信【ザスパステーション】相模原DF梅井大輝 8年間という時間を経て、再び敷島に戻ってきたプレーヤー

無料配信【ザスパステーション】相模原DF梅井大輝

8年間という時間を経て、再び敷島のピッチに戻ってきたプレーヤー

「ザスパで試合に出たことが、ずっと心の支えだった」

 

  

相模原のCB梅井大輝は、2010年にザスパに在籍していた。

 

左足の絶妙なボールタッチと高さを備えた194センチの大型DF。福井・丸岡高から高卒で横浜F・マリノス入り、将来が嘱望されたプレーヤーだった。

 

しかし、J1の世界は甘くはなかった。中澤佑二、松田直樹らJリーグを代表するCBが揃うチームで、出場機会を得られなかった梅井は2010年にザスパに期限付き移籍でやってきた。

 

シーズン序盤、ザスパでプロ初出場を果たすと5試合に出場したが、5月以降はケガに苦しみ、戦列から離れた。手術の際には、梅井の父親が福井県から駆けつけ、面倒をみていた。当時の取材では、そんな父親へ感謝の言葉を口にしていたこともあった。

 

梅井は秋の復帰後、もがき続けたが、ケガの回復も芳しくなくシーズン終了を待たずに、レンタル元の横浜、そしてザスパとの契約が満了、行き場を失った。

 

トライアウトへ向けてコンデションを整えていたが、ザスパでの最終練習日に再び足を骨折。21歳の若者は、契約満了となった上に、負傷してしまうという二つの不運が重なり、そのままザスパをあとにした。

 

梅井は半年以上の治療、リハビリを経て、2011年は大分に在籍。リハビリをこなしながら試合復帰の予定だったが、ケガの状態は芳しくなく、翌年はJFL金沢へ移籍した。

 

「ザスパではJデビューをすることができたが、最後に大ケガをしてしまって、その次の年は無所属になってしまった。大分、金沢とクラブを転々としながらリハビリをしていたが、痛みがまったく取れなくて、本当に苦しかった」

 

脳裏には、何度も「引退」の二文字がよぎったという。

 

「ザスパでJデビューさせてもらって、自分の中ではやれるという手応えがあったので、ここで辞めてしまったら、一生後悔すると思った。ザスパで試合に出たことが、ずっと自分の支えだった」

 

梅井は2013年に地元福井へ戻り、甲信越リーグ・福井へ加入。2〜3年のスパンで復帰を試みた。福井では3年間在籍、その間、アルバイトとサッカーを掛け持ちしながら通信で大学資格を習得していた。

 

2015年末、恩師であった佐野逹監督(元ザスパ監督)がチームを離れるのと同時に福井を退団。サッカー人生をかけて、福島のキャンプに練習参加、契約を勝ち取った。

 

「僕もその前の年に結婚して、最後のチャンスだと思って福島のキャンプへ行った。そこでダメだったら、サッカーに区切りをつけるつもりだった。そんな状況で福島に拾ってもらって、遠回りしながら一つずつ階段を登ってきた」

 

梅井は福島で19試合に出場し完全復帰すると、相模原へ籍を移して、レギュラーポジションを確保している。

 

「カテゴリーを一度でも落とすとなかなか上がってくるのが難しい。福井は地域リーグだったので活躍してもJからの評価は分からないし、想像以上に厳しかった。でも、あきらめなかったことで、J3まで戻ることができた」

 

ザスパのサポーターは5月3日の相模原戦、正田スタのピッチに戻ってきた梅井を拍手で出迎えた。

 

「僕がザスパにいたのは8年も前で、しかも5試合しか出ていないのに、覚えていてくれて拍手を送ってくれたことが嬉しかった。ザスパで2度目にケガをしたときは、複雑骨折で、膝から下の神経が麻痺してしまって、病院からも『もうサッカーは無理だと思うよ』って言われた。あのときは、またここに戻ってこられると思わなかったので、うまく言葉が見つからない。ザスパのサポーターの皆さんに、自分がプレーしているところを見てもらえて本当に良かったと思っている。感謝の気持ちでいっぱいです」

 

梅井は、8年間という時間(とき)を経て、再び這い上がってきた。この8年間は、物語の単なるプロローグ(序章)。遅咲きCBのサッカー人生は、これからが本章だ。(Gマガ・伊藤寿学)

 

 

 

« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ