デイリーホーリーホック

【HHレポート】水戸ホーリーホック創設20周年記念誌発売特別企画「20年を振り返ろう!サポーター座談会② ~J2初年度から前田時代編~」(2014/12/26)※全文無料公開

水戸ホーリーホック創設20周年記念誌が来年2月に発売される(予約は12月26日まで)ことを記念して、デイリーホーリーホックではサポーターとクラブの歴史を振り返る座談会を開催。
集まってくれたサポーターは以下の3人。
・三輪和也さん(サポーター歴18年)
・直井誠さん(サポーター歴13年)
・坂部芳則さん(サポーター歴12年)

そして、デイリーホーリーホックのメインライターを務める佐藤拓也の4人で水戸の歴史について熱く、そして楽しく語り合いました。
第2回目は「J2初年度から前田監督時代」です。

水戸の持っている唯一の世界記録とは!?


佐藤:00年、いよいよJ2での戦いとなりました。ただ、昇格しても何も変わらなかったという話をされていたとか。
三輪:いや、でも、最初はすごい変化だったよ。開幕戦の相手が浦和レッズだったから! 駒場のアウェイ席が満席になりましたから。
直井:写真で見たことがあるけど、楽しそうだったね。
三輪:いきなりチケットの心配からはじまったから。案の定、チケット買えない人もいましたよ。
佐藤:初戦は1対2で敗戦。2戦目で大分に勝利しました。
三輪:村田教生のVゴールだよね。そんなにすぐ勝つとは思わなかった(笑)。驚きと言えば、驚き。JFLではあれだけ勝てなかったから。逆に「Jリーグで意外とやれるのかな」と思った(笑)。
直井:00年はかなり勝ったんだよね。パビチ・ブランコ監督はどういうルートで連れてきたんだろう?
三輪:それは全然分からないよね。ただ、その年は15勝しているから。楽しかったね。でも、00年は憤ることもありました。それは奇数でリーグ戦を行っていたため、各節1チームが休みとなるのですが、水戸は最終節が休みだったんです。それでその前の試合がホーム最終戦だったのですが、平日開催(木曜日)だったんですよ。さすがにそれはひどいよね。
直井:この年、第34節から4試合連続Vゴール勝ちしているんですよ。おそらくそれが水戸の持っている唯一の世界記録なんですよ。

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クラブ存続危機を乗り越えて

佐藤:2年目は後に社長となる小林寛監督が就任します。
三輪:この年は勝てなかったね~。でも、池田伸康と木澤正徳さんが来た。この2人の存在は大きかった!
直井:その2人は明らかにレベルが違ったね。
佐藤:ただ、この年の終わりに経営難が発覚します。
三輪:秋頃に「危ないから覚悟しておいて」という話を聞きました。でも、本当に公になったのはホーム最終戦が終わった後で、存続のための署名活動を行ったのはリーグ最終戦の試合会場となった三ツ沢でした。
直井:知り合いのサポーターはその時三ツ沢に行かないで、署名を集めに新潟まで行ったって言っていた。そこでたくさん署名が集まったみたいですね。
三輪:署名活動はそれ以降、水戸駅北口で毎週やりましたよ。結局、約2週間で5万筆集めて、市に提出したんです。驚いたのは水戸市に住んでる方の署名がすごく多かったこと。そして、学校単位で提出してくれるところも多かった。一時的に話題になったので、多くの人が動いてくれたんだと思います。
佐藤:署名を提出して何か効果があったのですか?
三輪:水戸市にホームタウン推進協議会ができた。
直井:それは大きい。今の地域密着があるのは推進協議会があるからこそ。つながっているんだな~。でも、署名で疲れて、水戸から離れていく人も多かったとか。
三輪:いや、どちらかというと、翌年にJリーグから課された「ファンクラブ会員3千人」のノルマを達成するためにサポーターが毎週毎週駅前でチラシ配布を行ったんです。それはさすがにきつかった。いろんなことに疲れて離れていく人はいました。
佐藤:サポーターがそれをやっていたのですか!?
三輪:ですね。ただ、存続の署名を行ったことで、「水戸は弱い」というイメージが市民に染みついてしまった。
直井:それはあるね。俺が試合を見に来るようになっていろいろ活動をさせてもらいましたが、03年や04年はものすごくネガティブなイメージを持たれていた。だから、大変だった。迷惑をかけられた人がたくさんいたんだと思う。ポスター貼りに行った時、お店の人から「水戸ホーリーホックの人間は正面から入るな」と言われたこともありました。たぶん金銭面のトラブルがあったお店だと思うのですが、その対応は衝撃でした。
佐藤:組織としてJリーグで戦うだけのものが備わっていなかったんでしょうね。
三輪:俺も02年の頃は一度水戸から心が離れましたよ。疲労もそうですが、やはり人間的なゴタゴタもあって……。この時期はそういったことの繰り返し。サポーターにクラブの内情が筒抜けでしたから。

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世間をにぎわせたGLAY騒動

佐藤:そうした危機的状況の中、小林寛社長が就任します。それから数年は存続するだけでも大変な状況だったと思います。クラブを潰さなかったことがこの時期チームを支えた方々の最大の貢献でしょうね。
直井:一番つらい時期をよくしのいでくれたと思う。でも、その期間でも最下位になっていない。それはクラブとしてのこだわりだったし、現場としての意地でもあった。
佐藤:「20周年記念誌」の中で小林寛社長がこだわったのは「民事再生しないこと」と述べています。借金をちゃんと返しながら、クラブを立て直していくと。その時、民事再生していたら、クラブはさらに市民から愛想をつかされていたでしょうね。今、地域密着してできているのも、それが大きいと思います。
直井:小林社長は当時いろいろ言われていたけど、この人がいなかったらクラブは潰れていたという人は多い。
佐藤:「20周年記念誌」の中では「ホーリーホック買収話」にも触れられています。
直井:当時、それはなんとなく聞いたことがある。あの頃、怪しい話がたくさんあったからね(笑)。
三輪:GLAY騒動もあったよね。あと、スティーブン・セガールが来るとか(笑)。
直井:当時図面まで見せられたんだけど、水戸近郊にニュータウンを作って、その中に公園を兼ねた水戸の専用練習場を作るという構想があった。でも、いつの間にか話は消えていた。水戸らしいな~と思ってね(笑)。
佐藤:ありましたね、GLAY騒動。水戸の試合にGLAYが来ると報道されて、混乱したため、中止となった事件。その後が面白いですよね。その記事の中で水戸ホーリーホックの紹介がされたのですが、チケットの紹介のところで「水戸黄門シート」って書かれてしまったんですよ。「水戸黄門」という名称はTBSが著作権を持っているため、勝手に使っているのがバレてしまい、TBSから抗議が来た。
直井:それでお金を払う代わりに「水戸黄門」のピッチ看板を出して許してもらったという、何とも当時の水戸らしい出来事でしたね。
三輪:試合の日、笠松の門に「GLAYは来ません」って書いた紙が貼り出されていた(笑)。
直井:探せば、どこかに画像あるな(笑)。A4の紙にワープロで打ったような文字で書かれてたね(笑)。
三輪:雨の川崎フロンターレ戦だったね。
直井:いつも通りジュニーニョに決められて負けたという(笑)。

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03年はトゥーリオの時代

佐藤:前田秀樹監督はいかがでしたか?
直井:一番大変な時期を我慢強く戦ってくれたよね。
三輪:03年はトゥーリオ(現田中マルクス闘莉王)だね! 彼は規格外だった。
佐藤:開幕3連勝で前半戦は上位争いを繰り広げ、「春の珍事」と言われましたね。
坂部:トゥーリオさまさまだったんですか?
直井:彼一人でやっているような感じだった。トゥーリオシステムだったから。
佐藤:サポーターはかなり盛り上がった?
三輪:ああいう選手がいると楽しいよね。よく喧嘩もしていたし。
直井:試合中でも仲間と喧嘩していたから。
三輪:明らかな自分のミスでも周りのせいにしていたからね(笑)。
直井:文句を言うサポーターをにらむことがあったし。大宮公園での試合はずっと俺たちのことをにらんでいた(笑)。面白かったなぁ。サポーターに向かって「かかってこいよ」って言うんだから(笑)。
三輪:トゥーリオコールをしなかった試合もあったね。前の試合後、サポーターのことを睨みつけて、文句を言ってきた。サポーターは特に何も言ってないんですよ。だから、そういう態度の選手は応援しないということでコールしなかったんだけど、トゥーリオをお世話している人が「トゥーリオも反省しているので、応援してあげて」と言ってきたので、コールすることにしました(笑)。
直井:トゥーリオはそういうところに一番敏感だったよね。だから、点を決めるとよくサポーターのところに走ってきた。三ツ沢で終了間際に決勝ゴールを決めた時のことは忘れられない。ゴールを決めて、そのままサポーターの方に走っていこうとしたら、途中でパンチョに飛び乗られて、おんぶ状態でゆっくりになってしまった(笑)。
三輪:03年はトゥーリオの時代だったね。

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茨城ダービーで見えた可能性

佐藤:前田監督時代は「守備」のサッカーでした。
三輪:とにかく点が取れなかったね。
直井:04年あたりからFWに対する守備の要求が高くなった。DFWって呼ばれていた。
佐藤:04年は天皇杯で鹿島アントラーズと対戦しました。
直井:あれはいい試合だったね。こんなに盛り上がるんだなと思った。メインやバックに普段試合に来てないような青い服を着た人がたくさんいてビックリした。
三輪:バックスタンドが青と赤できれいに真っ二つに割れたから。
直井:それを見て水戸サポーターがちょっと引いたという(笑)。いつも試合に来てないのにと思って。
佐藤:潜在的な水戸の可能性を見ることができた?
直井:その日、スタンドを見ながらクラブスタッフと「可能性あるよね」という話をしたね。
三輪:トゥーリオが帰化する時に水戸がいろんなメディアで露出された。それが大きかったと思う。04年のホーム開幕戦は9千人入ったから。そうした流れの中で行われたダービーだった。
佐藤:しかし、それ以降も潜在し続けました(笑)。
三輪:05年や06年は何も変わらなかったな~。ただ、前田さんの存在は大きかった。
直井:いい意味で勘違いしそうになった。前田さんはサポーターとの距離感が近いから、市民クラブってこういうことを言うんだと。かなり入り込んで関わっていいんだと思いこんでいた。今はそれが違うと分かっているけど、とにかく前田さんが大好きだった。
佐藤:勝った試合後に前田監督を囲んで喜びを分かち合う「前田祭り」は盛り上がりました。
直井:ある試合で引き分けてサポーターが怒ってバスの前で抗議したんですよ。そして、その次の試合で前田采配がズバリ的中して大逆転勝利した。試合後、前田さんにサポーターが土下座して謝った。それがはじまりだったね。
佐藤:当時だからできたことですね。
直井:今だったら、やった初日にtwitterで上げられて、叩かれまくるだろうね。
三輪:「前田祭り」は国立競技場の試合が印象深い。
直井:君が代をみんなで歌って、「前田秀樹」と書いた日の丸を掲げるという。試合はじまるときも前田コールしていたから。しかも、1対0で勝った。2回目の「国立前田祭り」も5対1で勝った。楽しかったなぁ。
三輪:最初の方が面白かった。東京V相手に守りきって勝った。試合後、録画した映像を見てアナウンサーが「守り切りました! 水戸! 守り切りました!」って絶叫していて感動するものがあった。

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残念だった前田時代の終焉

直井:でも、前田時代があんな形で終わるとはね。
佐藤:最後は残念でしたね。
坂部:ホーム最終戦、試合を見に行っていたのですが、サポーターミーティングがやっていたのでのぞいてみたら、「前田監督が続投しないことが決まった」と言っていて、みんな殺気立っていた。いろんな悪いことがあるんだろうなと思いながら見ていました。
佐藤:問題は前田監督の評価云々ではなく、強化部を通さずに宮田裕司社長(当時)の一存で監督交代が行われたことで、クラブとしての体をなしてないということが浮き彫りになってしまったことでした。
三輪:5年監督を務めた人に対する扱いじゃなかったよね。リスペクトがまったくなかった。あれは残念でした。
直井:判断自体は間違いじゃなかったと思うけど、やっぱり方法が間違ってたよね。
佐藤:正当化はできないですよね。
直井:そうだね。前田監督と鬼塚忠久強化部長(当時)は派閥争いに巻き込まれて追い出される形になってしまった。
佐藤:株主総会で小林社長から宮田社長へ交代することが決まった翌日、スポーツ新聞には「クーデター」という見出しの記事が掲載されました。
三輪:ただ、宮田さんは宮田さんなりに水戸への熱い思いを持っていた。そうした思いを一つにまとめきれなかったのが当時の水戸。
佐藤:そうですね。とにかくバラバラだった印象です。
三輪:強化部長は「監督続投」と言っていて、監督だけがクビになり、強化部長は取締役だったこともあり、クラブに残ることとなった。いびつでしたよね。
佐藤:とはいえ、小林寛社長、前田秀樹監督、鬼塚忠久強化部長の3人が一番苦しい時期をよく耐えてくれたなという印象でした。
三輪:よく投げ出さなかったよね。何も得しないのに。3人に対しては、石山さん同様、感謝の思いしかないです。

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※座談会③に続く

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