デイリーホーリーホック

【特別寄稿】ボランティアグループ「Tifare」代表補佐・栗原賢二さんコラム「裏方魂22 前日設営2007」(2015/2/20)※全文無料公開

07年ごろの「笠松時代」の記憶をたどる

今季始めはKsスタのピッチ張りかえにより、笠松陸上競技場で試合開催する事になりました。
ライセンス問題について思う所はありますが、現場に立つ身としてまず「運営の質を落とさないためどうするか?」も考えたい。
Ksスタ以外でホームゲームを行うのは6年ぶりでしょうか。不便さ等のマイナス面は避けられないけど、それだけで終わらせたくないですね。
あれからチームがどれだけ成長したのか計る機会にもなるし、新たな可能性を何かしら見いだせれば良いなと。

準備運動も兼ねて2007年ごろの『笠松時代』に、どのような前日設営を行っていたか記憶をたどってみました。
クラブスタッフ含めて作業人数は4~5名。応援隊の仕組みもまだなく、個人で「手伝わせて!」と申し出て参加していました。

以下の写真は2年ほど前、懐かしくなり立ち寄って撮ったものです。
観客動員のベースが上がった現在、以前とスタジアムの使い方が違ってくる所もあるでしょう。

【写真1】

午前中はピッチのライン引き。選手が練習している間近でセンターサークルを作る場合も。
西野晃平や眞行寺和彦がボール蹴るのを横目に石灰を補充する、のどかな時代でした。
ゴールポストを立てるのは、人数が少ないだけに重労働。角の部分を持って運ぶのがきつい!

【写真2】

そうそう、広い駐車場からバックスタンドに向けてお客さんが歩いてくるんですよね。
客席階段上の柵にMフラッグをくくりつけて、聖火台の下に「ホームタウン推進協議会」横断幕を貼りました。

【写真3】

ここがメインスタンド入口。現在に通じるゲート運営の基礎を作り上げた場所です。
階段登って左側がグッズ売店だったかな。空いた場所に手作りの「神社」を安置していた時期もありました。

【写真4】

備品の拠点、L入口!右奥の収納スペースに案内看板や照明、ゲート道具に至るまで重要アイテムがぎっしり。
スタジアムの外周が長めなので運ぶのが大変だけど、私達には強い味方がいました。

【写真5】

モータートラック『パクパク号』&『ポッポ号』!速度はせいぜい時速15kmぐらいだけど、積載量が頼もしい。
運転を任される時は妙なエリート気分でした。ちなみに私はパクパク推し(笑)

【写真6】

もうひとつの拠点、倉庫7。中にテント一式が入ってました。

【写真7】

こちら客席。ホーリー君が写りこんでるのはご愛嬌(笑)
電光掲示の右下にスポンサーバナーを貼るのですが、クラブスタッフ鈴木郁恵さんと「背が低くて届かない~」などとやっていたのも良い思い出。
さて、客席の雑巾がけはどうしたものか・・・。

【写真8】

当時の放送席およびVIPエリア。DJ寺ちゃんの雄叫びが聴こえてくるよう。
狭い階段をパイプ椅子と机抱えて登るのが大変でした。残り何個持っていくか、伝令しながらの設置作業。
何よりジュースの冷蔵ボックスを、1階からエレベーター経由で運ぶ難儀さは忘れもしません!
カーペットに車輪がとられて進めなくなるんですよ。ボックスごと回転させながら前進させる、テクニックを要しましたね。

写真で紹介した他にもピッチ看板、選手控室、運営本部など重要な作業がありました。
とにかく「大変だった」記憶ばかりなのは、取りかかる人数が絶対的に少なかったからでしょう。
人数が2倍なら作業は4倍速くなり、人数3倍なら9倍速くなるというのが経験的な実感。

昼休みにクラブスタッフと、ラーメン食べたのも懐かしい思い出ですね。
当時の前日設営を共にした人は少なくなってしまいましたが、彼らのためにも成長の跡を見せたい。
あの頃は正直、何の希望も見いだせなかった。それでも身体が動いたのは、チーム消滅の絶望を味わいたくなかったから。
数年前に比べてチームは、私はどれだけ前に進めたのか?まず過去の自分自身に勝利する事で、強くなった証としたいです。

(栗原賢二)

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