デイリーホーリーホック

水戸OB福井諒司さんインタビュー(前編)「水戸は地域密着型でサポーターとの距離が近い。選手として成長できた思い入れの強いクラブ」【インタビュー】

【写真 米村優子】

2016年6月から期限付き移籍で加入。翌年から完全移籍し、2018年までの約2年半、水戸ホーリーホックでセンターバックとして活躍した福井諒司さんが、2021シーズンで12年間のプロ生活に終止符を打ちました。
そして第二の人生として選んだのは、茨城県での教師の道。
これまでのサッカー人生を振り返りながら、故郷ではない茨城の教育の現場でセカンドキャリアを歩んだのか、また、どんな教師を目指していくのか語ってもらいました。

どのクラブでも人々に支えられ、「サッカーは楽しいな」という気持ちで最後まで終われた

Q.12年間のプロ生活、お疲れ様でした。
「本当にあっという間でした。一年一年がすぐ過ぎていた気がします。色んなチームに行ったのですが、どのチームでも一年経つのが早くて、どこでも充実していたんだなと感じている所です。それだけサッカーに対して必死に取り組めたのかなと思います。ただサッカーが好きだったというだけかもしれないですね。辛いこととか結構あったと思うのですが、そんなのを忘れるぐらい、『サッカーは楽しいな』という気持ちで最後まで終われました。いいサッカー人生だったんじゃないのかなと思っています」

Q.Jリーグ通算229試合出場、10得点を記録。6クラブを渡り歩きました。
「行った先々で出会った人達にすごく支えられたし、応援してもらいました。すごく温かく、優しかったです。色々な地域に行きましたが、サポーターが応援してくれるのもありますが、サッカーを全然知らなくても身近な距離で応援してくれる人達もたくさんいました。行った地域、地域、どこも良かったなと本当思いますね。自分は今でも人見知りするタイプですが、それでも色んな所に行って、色んな環境に入っていって、本当成長できたなと感じています。住めば都で、行ったチームはどこも印象があって、山口なんか半年で一試合もベンチに入っていないですが、やはりいい部分もあり、地域の人に助けられていました。沖縄もそうですし、今でも北九州でつながりがある人も結構います。行った所全てにいい所がありました」

「絶対に誰にもこのポジションを渡したくない」。それがサッカー選手の醍醐味

Q.2016年6月末に山口から水戸に期限付き移籍し、2017年から完全移籍した後、2018年まで2年半の間、在籍しました。
「水戸は山口に行ってから、半年で拾ってもらったクラブ。あのまま山口で出場機会なく、一年過ごしていたら、サッカー生活もそこで終わっていたかもしれません。もちろん山口の色んな人にも助けてもらいましたし、色んな出会いもありました。そこで自分が活躍できなかっただけです。そんな中、水戸が夏に声をかけてくれて、当時のセンターバックだったソン・ジュフン選手がケガをしてしまって、自分にチャンスが来て、少し使ってもらったシーズンでした。あそこでの出場がなかったら、ここまでつながることもなかったと思っています。サッカー選手としても成長できたなと感じています。最初は西ヶ谷隆之監督時代で守備的な戦い方でした。それまでは個人で守ることしか考えていなかったですが、守備の戦術とか、組織で守ることをすごく勉強させてもらいましたね。最後の年は活躍できなかったので、そこで契約満了となりましたが、一年目、二年目と選手として長く試合も出られましたし、自分の中では活躍できました。自分としては思い入れの強いクラブです」

Q.水戸時代の最後の取材では、2016年の0-3から同点に追いついた町田戦、2017年の13試合負けなしの頃、アウェイ松本戦で自身のゴールで初勝利した試合などが印象に残っているとコメントしていました。
「確かにどれも印象に残っていますね。2016年の夏頃は、今までにないぐらい必死でサッカーに取り組んでいました。もちろん生活もかかっていましたし、足が痛いとかも言えず、本当に我武者羅にサッカーをしていました。『絶対に誰にもこのポジションを渡したくない』という気持ちで挑んでいて楽しかったですね。あれがサッカー選手の醍醐味なんじゃないかなと思います。30歳を越えてくると、例え自分が出場できなくても、『チームのためだしな』と理解できるようになるのですが、28、29歳の頃はそれを認めたくなかった。味方ですけれども、活躍を認めたくないという気持ちもあったなと改めて思います。水戸での契約が終わって、琉球に行った時は、自分にチャンスが来なくても、『これは仕方ない』と心の整理ができていましたね」

Q.水戸時代はセンターバックでコンビを組んだ細川淳矢選手(FC今治)と一緒にいる時間が長かったですよね。
「今でもオンラインゲームで、ほぼ毎日のように連絡を取っていますけれども(笑)。大きかったですよね、細さんとの出会いは。ただシンプルに、優しく親切に接してくれた。それまで全然知らなかったのに、すぐ仲良くなれた。細さんは全然尖っていないキャラクターですから、あの年齢でも今治に移籍できたのかなと思いますよ。あの人間性は尊敬しています。ただ足はすごく臭っていたけれども(笑)。プレー面では、『これがセンターバックなんだな』と思いましたね。元々ピッチ外でも仲良いから、お互いに助けたいとも思うようになったというのもありますが、やはりカバーし合いたいという気持ちが互いにありましたね。片方のミスを片方が助ける。自然とそういう関係性ができていた。怒られたりもしましたが、怒ったりもしましたね。戦術的にも色々と教えてもらいましたよ。ちょっとよいしょしすぎかな(笑)。本当にいい関係だったなと思います。思い返せば琉球時代、水戸と対戦する時はめちゃくちゃ燃えていました。細さんにだけはやられたくなかったですね(笑)教師になることを伝えた時は、『セカンドキャリアのこと、教えてね』と自分の引退後のことを心配しているようでした(笑)」

Q.改めて、自身にとって水戸ホーリーホックとはどんなクラブでしたか?
「地域密着型。地域の方もサポーターも距離が近い。距離が近すぎると、ちょっと…と敬遠してしまう選手もいたりするんですけれども、水戸の選手はそれを嫌がっていなかったですね。私がいた時代の水戸は、このチームで使われなかったらサッカー人生が終わってしまうような選手が多かったんです。だから若手もバチバチとした緊張感のある練習ができていました。ベテランはベテランなりに、それをサポートする。かと言って、年齢が上だからと手を抜くことはない。いい関係性が年齢問わずできていたかなという気がします。アグレッシブなクラブでしたね。最初入った時はまだアツマーレもなかったですし、恵まれた環境ではなかったですけれども、そんな中でも必死に活躍してやろうという気概が全員から見えたクラブでしたね」

キャプテンマークを付けたアウェイ最終戦で勝利。葛藤の中、教師への想いが勝って引退を決めた

Q.水戸以外のクラブで印象に残っているゲームや得点シーンは?
「昔の得点は、結構忘れちゃっていますね(笑)。やはり昨年のFC琉球時代の最終戦ですかね。30歳を越えてから引退も考えるようになりましたし、それを考えながらもサッカーが好きだからやりたい気持ちも大きかった中で、昨年は特にベンチに入らない試合は、『いや、これで終わりなのか?』という考えも過ぎっていましたけれども、チャンスを与えられた試合で得点を決めて、『いや、まだ出来るのかな』という思いもあり、揺らいでいた時期でした。昨年の最終戦は栃木とのアウェイ戦だったのですが、主将が不在でキャプテンマークを付けさせてもらって、そのゲームで勝てたんです。『自分はまだサッカーしたいのかな?』と思いましたが、その前にはクラブから契約満了と伝えられていたので、『これで辞めるべきかな』と思い直したり。それは今でも鮮明に覚えていますね。辞め時というのは、難しかったです。自分の中では『やり切った』とキレイに辞めるのが全てではないですし、多少足掻いて、他のチームを見つけたりする道もありました。そんな中でも引退する方向に向いていきましたね」

Q.カテゴリーを変えるなど、選手生活を続ける道を選ばなかった理由とは?
「実は他クラブから有り難い話もありました。しかし、いずれ絶対に引退する時期が来る訳じゃないですか?逆にそっちに飛び込むのが怖いだけなんじゃないかなと思ったんです。『選手を辞めたくない』という人は、本当にサッカーのことだけを考えている人だと思うんです。40代、50代になっても現役の選手がいますが、やはりサッカー選手を長く続けられる人は少ない。引退後の生活もありますし、私には幼い子どももいます。40代になってまで続けるのは、なかなか難しいと思いました。ならば、次のチャレンジをするべきなのかなと考えたのです。私は大学時代に中・高校の保健体育の教員免許は取得しているので、『教員を目指してみようかな?』と水戸で契約満了になった時も考えていました。その時はちょうど琉球から話をもらっていましたし、サッカーを続けたい気持ちと半々でしたので、現役続行の決断に至りました。しかし今回は『教師になりたい』という気持ちが強くなったのが、引退を決めた理由ですね。他の仕事はあまりイメージ出来なかったこともありますが、いずれはやってみたいと思っていましたし、Jリーグで経験できたことを何か子どもたちに伝えられるんじゃないかという思いもありました」

※後編に続く

【写真 米村優子】

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