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栗原勇蔵が一番辛かった3度目の挫折……それでもマリノスで戦い続ける【サッカー、ときどきごはん】

 

栗原勇蔵はいつもグッと飲み込む
苦しそうなときに話を聞いても
うれしそうな場面でコメントを求めても
少しだけ表情を変えて淡々と話をする

そんな栗原は辛いときが3回あったと言う
その3つを振り返るときも栗原は静かだった
それでも秘めた思いは溢れ出る
やっと笑顔になったのは食の話のときだった

 

▼苦しかった高校時代に決心したこと

自分の辛かった時期……そうですね、大きく分ければ3つなんですよ。まず高校生のときに、もちろんプロになれるかなんて全くわかってない時期のことで。

中学生でプレーしてたマリノスのジュニアユースは「楽しくサッカーやりましょう」というテーマでプレーしていることが多くて、フィジカル的要素は「練習の中であんまりなかったりするんですよね。

ところが高校に入ってユースに上がるとフィジカル的要素が入ってきて、走りとか、そういうのが出てきて。自分やっぱり体力がないほうなんで、もうめちゃくちゃキツくて、しかも監督が厳しいので有名な(安達)亮さんで。

フィジカル面でいうと自分は一瞬の力はもちろんあると思うんですけど、持久力系は遺伝的にも弱かったんですよ。跳躍力は高かったし足もそんな遅くなくて、そういう意味ではそこそこフィジカルあるんですけど、長い距離走るのはそこまで得意じゃありませんでした。

持久力は人並み位ではあったかもしれないんですけど、ある人に比べたら全然で……。勉強と一緒で、出来る人って簡単にできちゃうし、出来ない人は何回走ってもすぐタイムが落ちちゃったりとかするんですよね。

人によって向上する幅が違うみたいなんですけど、それが圧倒的に弱くて。そこはすごいキツかったですね。

ユース時代は夜9時ぐらいに練習終わって、そこから帰って飯食ってとかいろいろやってたら、寝るのが深夜12時近くになって。翌朝、学校に行って、みたいな。その繰り返しでした。

練習がキツすぎて嘔吐しちゃうし。食えないのが高校入って最初何日か続いて「これは、キッツいな」っていうのがあって。そんな中、学校の仲間たちはいろんな楽しそうな遊びを、高校生になってしてるじゃないですか。そんなの見て「羨ましいなぁ」なんて思ったりもして。

みんながコンビニの前でタムロってるだけでも羨ましかったし、高校生のころなんで、みんなでくっちゃべって、買い食いしてっていうのが楽しい年頃なんで、もう何もかも羨ましかったですよ。

自分はなんでこんなキツいこと、こんな辛いことやってて、みんなはなんでこんな楽しいことやってんだよって。「楽しいサッカー」から実力の世界というか「勝つためのサッカー」に変わったんで、そのときはやっぱりキツかったですね。

プロになりたいと思っても、先輩たちがうますぎて、これちょっと自分がプロになりたいなんて言うと、おこがましいというか。プロ目指してやってるけど全然現実的でもなんでもなかったし。「プロになれるかな?」と思ったのって高校3年ぐらいなんで。もう、高校の1年とか2年のときは、結構大変な時期でした。

だけど高校生ながらに思ってることがあって。自分は練習を1回でもサボったりすると、そのままサッカー嫌になって辞めちゃう可能性あるなって。中学校のときにも実は1回辞めたいと思ったことがあったんで。だから「サボるのはもう辞めるって時だけにしよう」と思って。

休んだらチームメイトに置いていかれるというのもあったし。練習ではみんなに付いていくってだけで余裕が全くなかったので、1回の練習を休んだことでみんなに置いていかれるのも嫌だったし。

そんなことを思ってたから、ズル休みみたいなのは本当に1回もしなかったですね。学校はそのかわり犠牲になって、遅刻とか早退とか、休みとかすごい多かったですけど(笑)。そのおかげでサッカーは休まずにちゃんとやってましたね。

自分では精神力強いとか全然ないと思うんですけど、そう考えたら「気持ち」ってそこそこあったのかな。今考えるとそう思いますね。辞めていく友達とかもいっぱいいたんで。

そうしたら自分が高校3年のときにU-18日本代表の立ち上げがあって、そこに入ることができたんですよ。U-18日本代表にいる仲間たちは、基本的にもうプロに上がるっていう選手ばっかりだったから、彼らと一緒にやれるかどうかがプロになれるかどうかの1つの目安にはなっていました。

それからユースの上の代の人たちが9人トップチームに上がってたんで、そこに追いつけば自分もプロになれるかも、という気持ちもありました。同年代でもすごいヤツらがいたんで、この中で普通にやれればプロになれるかなって。

ところが困ったことも起きてしまって。U-18日本代表に入ると遠征とかで学校を休まなきゃいけないじゃないですか。だけど自分は学校の部活動じゃなくてユースだったし、そこそこヤンチャなこともしてたんで、高校が公休にしてくれないんですよ。前例もなくて。そもそも学校で自分がサッカーやってるって知ってるのは、ホントに仲のいい3、4人しかいないぐらいで。

ユースの活動が公休にならないから「出席日数が足りないかも」って心配しなきゃいけなくなったんです。それで監督の亮さんも挨拶に行ってくれたんです。

ただそのとき、自分は学校に200回以上遅刻してたんですよ(笑)。遅刻を3回してた先輩が亮さんにすっごい怒られてたことがあって。だから遅刻のこと知られるとそれ以上に怒られるんじゃないかってビビってたんです。

亮さんが学校に行ったあと、「おい、学校行ってきたよ」みたいな感じで呼び出されて。「うわ?何されるのかな」と思ってたら、「あの学校は厳しいな(笑)」って。それで許してもらえました。

すると高校3年のときに宮城国体(2001年第56回国民体育大会)の神奈川県メンバーに入るってことになったんです。国体だとになると学校行事になるんで公休になるし、学校の名前も出るし。そうしたら急に先生の態度が変わって、いろんなことで休んでも大丈夫になったりしました。

文化祭の時には「栗原勇蔵君 宮城国体出場おめでとう」って垂れ幕が出て。周りのみんなはサッカーやってるのほとんど知らないから、みんなキョトンとして。「アイツってただの不良じゃないの?」って。確かに学校に朝来ないしよく休むし、すぐ帰るし。それなのに幕が出てきて。

不良だとしか思われてなかったから「あの高校、やっちゃってください」とか言ってくるヤツもいたくらいだったのに、急に垂れ幕が出たんで、みんな目を丸くして「どういうこと?」みたいな。

そこでやっと自分がサッカーやってるって知られたんで、女の子にキャーキャー言われるわけもないじゃないですか。

自分としては「え?」みたいな感覚でした。U-18日本代表のメンバーって、はっきり言って国体のすごい版のメンバーじゃないですか。国体って神奈川の中だけの選抜だけどU-18日本代表は全国だし。

「国体なんかよりU-18に選ばれたってことが、よっぽどすごいんだけどな」って心の中では思ってました。何か不思議な出来事でしたね。

 

 

▼いい思い出と悪い思い出が交差する時代

2番目はやっぱりプロに上がった2002年ですね。全然試合には出られなかったし、何よりいい選手がいっぱいいたし。サテライトリーグのベンチにも入れなかったりとかでしたから。

チームに入った若い選手が簡単にチャンスをもらえるような時代ではなかったのですね。それに自分は意欲的にやるタイプでもなかったので、「どうにかなればいいなぁ」と思ってたぐらいで。

年俸も本当に少なくて、サラリーマンの人のほうがよっぽどもらえるくらいで、「こんなのだったら辞めたい」って思うぐらい、何にも面白くなくて。それは辛かったですね。

2003年になると岡田武史さんが監督になって、ちょこちょこ試合には出してもらうようになりました。レギュラーとはまでいかないですけど、試合に出るという状態が3年ほど続いて。

やっぱり充実感が違うし、A契約になると勝利給をもらえるなど全然違うので、そこからは面白くなってきました。

それまでは挫折というか、「サッカー選手って何にもよくないな」って思うくらい、何も得てなかったし得る自信もなかったんで。

岡田さんが来て最初に2回優勝したんです。ただ自分は若かったし、こういう性格だったんで、イジられたというか。マツ(故・松田直樹)さん、ボンバー(中澤佑二)というすごい人たちがいる中で、しわ寄せが自分に来るときも多かった(笑)。

でもずっと日本人監督でやってて、日本人って相手の気持ちを読み取ってくれるのがうまいじゃないですか。けど、外国人監督はそういう「察する」ってあまりやらないですね。自分がこの歳になるまでそういう経験が少なかったのは、最近のマリノスの中で苦労しているところの原因なのかなって思いますね。

それが3番目の挫折につながる話なんですけどね。挫折というか、フランス人のエリク・モンバエルツ監督の性格は最後まで掴めませんでしたね(苦笑)。

 

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