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人生の中でこれだけ批判されたのは初めてだった……都並敏史が歩んできた傷だらけの監督道【サッカー、ときどきごはん】

 

指導者としては挫折の連続で、大きな傷を負ってきた。
いつも明るくユーモアを忘れず、誰からも愛される「永遠のサッカー小僧」は、その笑顔の裏で葛藤を抱えていたのだ。
「今頃になってやっと何が大事が気づいた」
これまでの道のりを振り返ってもらいながら、秘めていた苦悩を打ち明けてもらった。

 

■今になってやっとわかった指導者としての心構え

1998年に引退したときって、タレントになるという話もありました。2つぐらい芸能プロダクションから誘っていただいて。有名な女性タレントさんと2人で番組を持たないかという話が来たことがあります。実現したかどうかわからないけれど、それくらいの話は来てました。

でも当時まったく興味なかったので「結構です」と断りました。芸能の方向に行くか、サッカーに行こうか迷った時期があったんですけど、でもパッと雲が晴れるように「やっぱりサッカーの場所にいたい」というのが自分の中にはっきり見えたので。

今もちょこちょこテレビに出させてもらってますけど、そういうのも嫌いではないので、軸足はサッカーに置きつつ、テレビの仕事もやらせてもらってます。そういうふうになるのが一番やりたかったので、そうやって生きてます。

僕は地道にやりたいと思ったんです。そうは思ってもらえないかもしれないんですけど、サッカーが好きなので追求していきたいという気持ちがあるんです。だったら地道にやらないと難しい世界だというのがわかっていたので、育成の世界から入って勉強して、という形をとりました。自分の力がわかっていたので。

なんと言うのかな、結構不器用なんですよ。ある程度慣れないと自分の良さを出せないとか。こう見えても小心者なので、大胆に勝負できないとかそういうのがあるから、指導のベースを自分で学んでおかないとダメだなと思って。

それで下部組織を指導してたんですけど、最初は自分がよくなかった部分もありました。たとえば育成のカテゴリーでトップチームの監督になるためのシミュレーションをしていた部分もあったので、それは反省してます。育成のコーチというのはそれじゃいけないんで。それよりは選手たちを本当に大きくしてあげる、成長させてあげるという意識でやらない限り、選手は伸びていかないので。

そしてそれが一番日本に足りないところだと思ったんですよ。現役を終わった選手がすぐ育成カテゴリーの監督になって、トップチームの監督になるためのシミュレーションをして、若い選手たちに自分の戦い方だけを教えちゃうみたいな。

そうすると戦術的な練習の時間が増えちゃうじゃないですか。それよりもキックやヘディングといった基礎をちゃんとさせてたほうがいいんですよ。もっと飯食わせて、「走れ」と言ったほうがいいわけで。時間の使い方です。

育成の指導者というのは選手を育てるということに情熱をかけて、1人でもいい選手を育てる。そしてトップに上げてすぐ試合に出してもらえるようにする。そういう状態を作り上げなければいけないのが育成の指導者の義務なんです。

もちろん、それぞれカテゴリーで勝って上に行くというのは大事なことなんですよ。ただ本当に選手を伸ばすためには、毎日やらなければいけない、時間をかけてやらなければいけないことをやるのがすごく大事なんです。今ごろわかってきました。

 

■想像以上の大変さで一気に老眼になった仙台時代

僕が2004年にS級コーチライセンスを取ったら、ありがたいことにすぐ監督のオファーがありました。それで2005年ベガルタ仙台に行ったのですが、想像以上に大変でしたね。仙台は当時からサッカー熱が非常に高くて盛り上がっていましたから。期待も大きかったぶん、負けたときの批判も大きくて。人生の中でこれだけ批判されたのはないんじゃないかと思うくらいでした。鍛えられましたね。一気に老眼になりましたから。

老眼は若いころから日々進んでるらしいですね。ただ強烈なストレスがかかると一気に進行すると眼鏡屋さんで聞いてたんです。「そんなことないだろう」と思ってたら、負けた試合の後にたくさんの人がスタジアムに残って、最後は僕が出て行って罵詈雑言を食らって、けちょんけちょんにされたことがあったんですよ。すると次の日から目が見えないんです。それぐらいストレスがかかる仕事でした。ただ成功すると称賛に変わる仕事でもあるので、ありがたいと思ってやっていました。

途中からは悪くなかったと思います。でもそれには裏話があって。僕は新人監督で、自分の親友の齋藤芳行を「裏切らないやつ」ということで一緒に連れてったんです。けど、2人ともプロの指導者としての経験が足りなくて、僕たち2人と選手たちの間がギクシャクしてたんですよ。

仙台にはGKコーチとして読売クラブ時代からの仲間だったし、ずっと信頼していた藤川孝幸(故人)もいたんです。その藤川が「都並さんと齋藤さんじゃまだ選手たちにうまく伝わってないからダメだ」って。「経験のあるアシスタントコーチがいるから彼をヘッドコーチにしましょう」って、はっきり言ってくれたんです。

それで登場したのが手倉森誠ですよ。彼は素晴らしかったです。彼がまとめてくれたようなもんです。そこからしばらくしてチームは上昇していくんです。だから途中から良くなったのは手倉森さんのおかげもあります。でも藤川の大功績ですよ。勇気持って僕達に言ってくれたんです。手を震わせながら話してくれましたんで。

 

■解説と指導は全くの別モノだと痛感…

2006年はJ2に降格したヴェルディのコーチになりました。ラモス瑠偉さんが監督で、なかなか大変なシーズンでしたけど、でもすごく勉強になりました。僕も似たようなところがありますけど、選手に厳しく要求しすぎると選手がロボットみたいになっちゃうんです。ラモスさんは最初厳しかったので、それで萎縮しそうな選手をうまく乗せながらやるというのは大事なんだというのを感じましたね。

監督というのは大体最初、厳しすぎて選手が萎縮しちゃって、あとでだんだん優しくなっていくんです。でも厳しくても優しくても、自分が伝えるべきことは伝え、選手に任せることは任せなきゃいけない。その境界を整理できていくのが経験なのかと思います。

解説で上から語るのはいくらでもできますけど、人をスムーズに動かすというのはまた別の才能なんですよね。全く違いますよ。解説者ってサッカーわかってるわけじゃないですか。でもそれを選手に伝え過ぎても、言ってることがわかんない選手はわからないですからね。だったら言わないほうがいいんです。そしてたとえ言葉では伝えなくても、よい部分だけが出るように選手たちを組み合わせてあげる。そして伸ばすという考え方に変わらなきゃいけないんです。

けど、どうしても選手としてしっかり頑張ってきた人とか、あるいは解説者として頭が整理できてる人は、なんとかこの人に伝えてあげたいと、情熱的に語るんですよ。それは選手にとってマイナスになることもあると思うんです。重たいわけですね。そこの調整がすごく大事な部分じゃないかと思います。

 

■「車のナンバーを変えろ」反町監督の教え

翌2007年にはJ2に降格したセレッソ大阪の監督になりました。C大阪でも何もわかってなかったですね。やっと最近ですよ。十数年経って今のカテゴリーでやり始めて初めて見えてくるみたいな感じです。

 

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