【サッカー人気1位】錦糸町フットボール義勇軍に「解散はない…

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人生の中でこれだけ批判されたのは初めてだった……都並敏史が歩んできた傷だらけの監督道【サッカー、ときどきごはん】

 

指導者としては挫折の連続で、大きな傷を負ってきた。
いつも明るくユーモアを忘れず、誰からも愛される「永遠のサッカー小僧」は、その笑顔の裏で葛藤を抱えていたのだ。
「今頃になってやっと何が大事が気づいた」
これまでの道のりを振り返ってもらいながら、秘めていた苦悩を打ち明けてもらった。

 

■今になってやっとわかった指導者としての心構え

1998年に引退したときって、タレントになるという話もありました。2つぐらい芸能プロダクションから誘っていただいて。有名な女性タレントさんと2人で番組を持たないかという話が来たことがあります。実現したかどうかわからないけれど、それくらいの話は来てました。

でも当時まったく興味なかったので「結構です」と断りました。芸能の方向に行くか、サッカーに行こうか迷った時期があったんですけど、でもパッと雲が晴れるように「やっぱりサッカーの場所にいたい」というのが自分の中にはっきり見えたので。

今もちょこちょこテレビに出させてもらってますけど、そういうのも嫌いではないので、軸足はサッカーに置きつつ、テレビの仕事もやらせてもらってます。そういうふうになるのが一番やりたかったので、そうやって生きてます。

僕は地道にやりたいと思ったんです。そうは思ってもらえないかもしれないんですけど、サッカーが好きなので追求していきたいという気持ちがあるんです。だったら地道にやらないと難しい世界だというのがわかっていたので、育成の世界から入って勉強して、という形をとりました。自分の力がわかっていたので。

なんと言うのかな、結構不器用なんですよ。ある程度慣れないと自分の良さを出せないとか。こう見えても小心者なので、大胆に勝負できないとかそういうのがあるから、指導のベースを自分で学んでおかないとダメだなと思って。

それで下部組織を指導してたんですけど、最初は自分がよくなかった部分もありました。たとえば育成のカテゴリーでトップチームの監督になるためのシミュレーションをしていた部分もあったので、それは反省してます。育成のコーチというのはそれじゃいけないんで。それよりは選手たちを本当に大きくしてあげる、成長させてあげるという意識でやらない限り、選手は伸びていかないので。

そしてそれが一番日本に足りないところだと思ったんですよ。現役を終わった選手がすぐ育成カテゴリーの監督になって、トップチームの監督になるためのシミュレーションをして、若い選手たちに自分の戦い方だけを教えちゃうみたいな。

そうすると戦術的な練習の時間が増えちゃうじゃないですか。それよりもキックやヘディングといった基礎をちゃんとさせてたほうがいいんですよ。もっと飯食わせて、「走れ」と言ったほうがいいわけで。時間の使い方です。

育成の指導者というのは選手を育てるということに情熱をかけて、1人でもいい選手を育てる。そしてトップに上げてすぐ試合に出してもらえるようにする。そういう状態を作り上げなければいけないのが育成の指導者の義務なんです。

もちろん、それぞれカテゴリーで勝って上に行くというのは大事なことなんですよ。ただ本当に選手を伸ばすためには、毎日やらなければいけない、時間をかけてやらなければいけないことをやるのがすごく大事なんです。今ごろわかってきました。

 

■想像以上の大変さで一気に老眼になった仙台時代

僕が2004年にS級コーチライセンスを取ったら、ありがたいことにすぐ監督のオファーがありました。それで2005年ベガルタ仙台に行ったのですが、想像以上に大変でしたね。仙台は当時からサッカー熱が非常に高くて盛り上がっていましたから。期待も大きかったぶん、負けたときの批判も大きくて。人生の中でこれだけ批判されたのはないんじゃないかと思うくらいでした。鍛えられましたね。一気に老眼になりましたから。

老眼は若いころから日々進んでるらしいですね。ただ強烈なストレスがかかると一気に進行すると眼鏡屋さんで聞いてたんです。「そんなことないだろう」と思ってたら、負けた試合の後にたくさんの人がスタジアムに残って、最後は僕が出て行って罵詈雑言を食らって、けちょんけちょんにされたことがあったんですよ。すると次の日から目が見えないんです。それぐらいストレスがかかる仕事でした。ただ成功すると称賛に変わる仕事でもあるので、ありがたいと思ってやっていました。

途中からは悪くなかったと思います。でもそれには裏話があって。僕は新人監督で、自分の親友の齋藤芳行を「裏切らないやつ」ということで一緒に連れてったんです。けど、2人ともプロの指導者としての経験が足りなくて、僕たち2人と選手たちの間がギクシャクしてたんですよ。

仙台にはGKコーチとして読売クラブ時代からの仲間だったし、ずっと信頼していた藤川孝幸(故人)もいたんです。その藤川が「都並さんと齋藤さんじゃまだ選手たちにうまく伝わってないからダメだ」って。「経験のあるアシスタントコーチがいるから彼をヘッドコーチにしましょう」って、はっきり言ってくれたんです。

それで登場したのが手倉森誠ですよ。彼は素晴らしかったです。彼がまとめてくれたようなもんです。そこからしばらくしてチームは上昇していくんです。だから途中から良くなったのは手倉森さんのおかげもあります。でも藤川の大功績ですよ。勇気持って僕達に言ってくれたんです。手を震わせながら話してくれましたんで。

 

■解説と指導は全くの別モノだと痛感…

2006年はJ2に降格したヴェルディのコーチになりました。ラモス瑠偉さんが監督で、なかなか大変なシーズンでしたけど、でもすごく勉強になりました。僕も似たようなところがありますけど、選手に厳しく要求しすぎると選手がロボットみたいになっちゃうんです。ラモスさんは最初厳しかったので、それで萎縮しそうな選手をうまく乗せながらやるというのは大事なんだというのを感じましたね。

監督というのは大体最初、厳しすぎて選手が萎縮しちゃって、あとでだんだん優しくなっていくんです。でも厳しくても優しくても、自分が伝えるべきことは伝え、選手に任せることは任せなきゃいけない。その境界を整理できていくのが経験なのかと思います。

解説で上から語るのはいくらでもできますけど、人をスムーズに動かすというのはまた別の才能なんですよね。全く違いますよ。解説者ってサッカーわかってるわけじゃないですか。でもそれを選手に伝え過ぎても、言ってることがわかんない選手はわからないですからね。だったら言わないほうがいいんです。そしてたとえ言葉では伝えなくても、よい部分だけが出るように選手たちを組み合わせてあげる。そして伸ばすという考え方に変わらなきゃいけないんです。

けど、どうしても選手としてしっかり頑張ってきた人とか、あるいは解説者として頭が整理できてる人は、なんとかこの人に伝えてあげたいと、情熱的に語るんですよ。それは選手にとってマイナスになることもあると思うんです。重たいわけですね。そこの調整がすごく大事な部分じゃないかと思います。

 

■「車のナンバーを変えろ」反町監督の教え

翌2007年にはJ2に降格したセレッソ大阪の監督になりました。C大阪でも何もわかってなかったですね。やっと最近ですよ。十数年経って今のカテゴリーでやり始めて初めて見えてくるみたいな感じです。

C大阪で指揮を執ったのは3カ月でしたからね。そうなった原因はいくつかありました。たとえば、僕は4バックが好きでこだわりがあったので、C大阪にいた4バックに合わない選手たちを無理にそこに当てはめようとしたというミスもしました。今のミゲル・アンヘル・ロティーナ監督みたいに、4バックが得意じゃないような選手たちにもしっかりとわかりやすくシンプルにやらせるテクニック、監督としての技量がないにもかかわらず僕はそれをやってしまったんです。

選手に何か言うなら、しっかりわかりやすく説明すること。全員が理解できるようなメカニズムを作ること。わからないんだったら選手に任せる部分を多く作ること。黙って個人の良さを出せるような組み合わせを考えること。最小限のことだけを伝えることにしないといけないんです。

僕は自分の中ではわかっているんでたくさんしゃべります。細かくやりたい。だけど当時の自分を振り返ると、選手全員がわかりやすくなるように伝えていなかったし、チームリーダーを作ってなかったですね。

チームリーダーがいると、実はみんなに考えを理解してもらうという作業をするときに早いんですよ。チームリーダーにまずしっかり伝えて、それを周りに波及させていくほうが浸透しやすかったりします。そうやっておけば選手同士で聞けるから。これはたとえば守備の組織を作るときに有効で、全員に同じように「これをやれ」と言うと、みんな自分の作業に精一杯になっちゃって、組織が早く作れないんですよね。

こういうのが実は監督の経験というもので、経験があればあるだけ伝え方のマジックというのを増やしていけるんです。でも、そうやってうまくいっても勝つかどうかもわからないんですよ。そこがおもしろいところですね。すごい選手がいれば監督が何を言ってても勝っちゃいますからね。

それからアルビレックス新潟を率いていたころの反町康治監督がね、僕に教えてくれたんです。「都並さん、地域で指導者をやるときは車のナンバーもその地域のナンバーにしなきゃダメだよ」って。

仙台に行く時には仙台ナンバーに変えたほうがいいって言われたんです。でも僕は車が大好きだし、品川ナンバーにこだわりがあるんですよ。それで品川ナンバーでいたら、やっぱり「外様」っていう感じで言われたんです。これかと思いましたね。地域に行ったら本当に根付く意識を見せないとダメなんです。

でも結局仙台ナンバーには変えませんでした。セレッソの時も変えてないです。でもそういう細かいところもファンのみなさんはちゃんと見てるんです。だからそのぶん何か別のことをしなきゃいけないという意識は持って、いろいろなことを頑張りました。

 

■ヴェルディを変えたいという思いが空回り

その次は2008年の横浜FCですね。これだけ僕が監督のオファーを続けていただけた理由というのは、基本的に人脈でしたね。仙台の時は日本代表時代にお世話になった田中孝司さんがGMだったし、セレッソの時は西村昭宏さんという、日本代表の先輩が期待してくれましたし、横浜FCの時は読売クラブ時代の後輩が強化部長にいて、僕を信頼してくれたんです。

そういう形でチャンスをもらえたのは、人としてちゃんと生きてきたので、そういうのが1つの要素になり、あとは選手としての実績、監督として勉強してきたことを見てくれてたんだと思います。恩返しはできなかったのですが。

横浜FCでも途中で解任されたんですけど、それはやっぱりそういう順位にいたからで、クラブが守ろうとしても、クラブの周りの方々が納得できなかったらいけないし、そういう人たちも納得させられるような成績を出さなければやっぱりダメですよ。

解任されるということはやっぱり自分に責任があるんですよ。恐ろしい世界ですけど。たとえば仙台で起こったことですが、指導とはまた別の次元の話もあって。

当時、僕は、監督というのは起用する選手から戦術まで1人で決めて全てに責任を負うと考えていたんです。だから「結果を出せなかったらオレが責任取るから」って、最初からみんなに言っちゃってて。3年契約でいながら1年で辞めるぐらいの勢いで、熱く選手に語ってたんです。

でもそういうのって言葉に出してしまうと、シーズンの途中でGMが変わり、クラブを取り巻く人が変わってくると、その人たちがいろいろ言ってくるんです。そうするとダメならすぐ交代させるっていう状況が出来上がるんですよね。そうやってしまったことで、最後は「もう1年やりたい」って言ったんですけど、後戻りできないという状況になっちゃったんです。でもこれも自分のせいなので。

言葉を逆手に取られるというのはこの世界にありますね。だから去就については自分じゃ言ってはいけないわけです。ラモスさんからコーチの時に教わったのはそういうこともありました。誰がどこで何を決めているんだとか、そういうことを理解してないと邪魔者が入ってくるし、チームをコントロールできないとすごく教わったんです。プロというのは常にある程度の成績を残し続けて、チームを取り巻く人たちに対してもフォーローできなきゃいけないと。

ラモスさんは「監督だって責任を取るけど、監督が言ったことを出来ない選手にも責任があるだろう」って。その考え方って当たり前なんですよね。僕も教えてもらったときから変わりました。責任を取るのが監督なだけで、選手にも責任があるって変わってきましたよ。

だから選手に怒れるようになってきたし。前はあまり怒れなかったですね。自分が反省するばかりで。でも選手は怒ってほしいわけですよ。そういうところは甘かったですね。自分の守り方を知らなかったです。人がいいだけで。もうちょっと本質を考えていないとなかなか続けられない商売ですね。

昭和36年生まれの同期の中に、監督として大先輩の風間八宏がいるんですよ。僕はいつもアドバイスされてます。「お前、監督やりたいからって簡単に飛びつくなよ。いい選手がいなきゃやっちゃダメだ」って。

そのとおりだなって思うんですけど、やっぱり何か、プロヴィンチャのチームが長年かかって大きくなっていく世界があるじゃないですか。そういうのが夢があって僕は好きなんです。

川勝良一さんの大好きなルイジ・デルネーリが率いていたころのキエーヴォ・ヴェローナは僕も大好きでしたからね。数年かかってUEFAチャンピオンズリーグに出るっていう、そういうのも嫌いじゃないです。選手とともにいい成績を残せれば、人がよかろうがみんな一緒に残っていけるのがこの世界なんです。夢があるんですよ。ピュアな夢が。

その後はヴェルディでジュニアを教えたり、解説者をしてました。解説者という仕事もすごく好きなんですよ。解説をして日本サッカーを盛り上げる、そういう力は自分にもあると思ってたので、そういう歯車の一つになろうと思ってました。

そのころのヴェルディの経営陣は仲間だったので、もし経営がうまくいってたら将来的にヴェルディの監督を務めるということもあったかもしれないですね。でも経営がうまくいかなくなっちゃったんですよ。それにヴェルディの監督というのは、一度外に出た人間なら、そこで実績を残した人間以外やるべきじゃないとその時僕は思ってたんで。

それに経営陣が友達だったから僕がいろいろ仕掛けてヴェルディに収まったという噂があったと聞きました。でも彼らは、昔の読売クラブから生まれたヴェルディをもう一度大事にしたいという思いの人間で、立ち上がった時、僕に声をかけてくれたというのが真相で、僕が仕掛けたりはしないです。

僕が反省するのは、クラブを変えていくのにこちらの信念が強すぎて、やり方が厳しすぎて相手のことを考えてなかったことですね。情熱だけはすごかったんですけど、それが空回りしてました。僕はアルゼンチンの厳しさを見てきてるんで、フロントが変わると全てが変わるのは普通だと思ってたんですけど、当時の日本では受け入れられなかったですね。だから反発が起きたと今振り返ってます。

いろんな反発があったし、経営陣が仲間だったので、僕にもいろんな噂が出てましたね。 でも本当は最後、経営陣がお金がなくなったとき、僕は何年間かお金を貸してたりしてたんですよ。

それでも昔の読売クラブっぽい感じで、生え抜きを大事にして、テクニック重視のヴェルディが見たい、そういうヴェルディに戻そうというのに関係できて勉強になりました。今は外から応援してます。

 

■「金はいらないから入れてくれ」と飛び込んだクラブ

ブリオベッカ浦安とは前身のチームを含めて35年間付き合っているんです。昔から知ってるクラブで、息子も行かせてたし、保護者として付き合ってたんですけど、今そのタイミングかと思ってまた監督をやらせていただいております。

監督をもう1回やりたいという気持ちは常に持ってましたね。難しい仕事だし、選手の時もそうだったんですけど、難しいことに勉強して向き合って、改善してなんとか形にしてきたという自負があったので。どんなカテゴリーでもいいからもう1回監督をやって、胴上げされたいという思いがありました。

ブリオベッカに関わった最初のきっかけというのは、自分が読売クラブのジュニアユースにいた時の仲間に親友がいたんです。仙台でコーチをしてもらった齋藤ですね。彼は読売クラブのトップチームに入れなくて、外に出て行き、その後コーチになったんです。そして自分で会社を作って、僕もそこの株主になったりしたんですけど、コーチ派遣会社を作ったときに、派遣先に「浦安JSC」というブリオベッカの前身のクラブがあったんです。そこに僕がよく遊びに行ってたという、そういう繋がりからです。

そのクラブが、第2の読売クラブを目指すということで、中学生、高校生、トップチームというピラミッド型になったんです。そういうピラミッド型の良さを僕は知ってました。それに読売クラブの薫陶を受けた人たちがあのイメージを作りながらやってたから。小さい子が上を尊敬する、上の子がコーチとして下の子を教えるという素晴らしい環境があるんですよ。それが僕はうれしくてずっと応援してたんですね。だから僕は長男に勧めたんです。

うちの長男は僕のユニフォーム姿を見て育ったんで、ヴェルディ愛がありましたし、サッカー好きでずっとやってたんです。それで中学時代はヴェルディの支部にいて、卒業するとき僕に「ヴェルディユースに行きたい」と言ってきたんです。でも僕は「お前はそのレベルじゃない。セレクションも受けさせられない。当たり前だ。支部のレギュラーにもなれない選手がユースには入れるわけないだろう」って断ったんですよ。次男はヴェルディから「ユースのセレクションに来てくれ」とスカウトされて入りました。それは当然自分でチャンスを掴んで行ったんです。

それで長男には「お前は身の丈にあった浦安に行きなさい」と言って、行かせたんですよ。親でも子でも厳しいですよ。僕はサッカーでは親子も関係ないんで、そこははっきりお前のレベルじゃないと。長男は、浦安に行くか高校サッカーに行くか考えていたんですけど、結局浦安を選びました。それで僕は長男を浦安で保護者として見ていたんです。

長男は自分の才能が少し弟よりも劣っているということを理解してました。ただ長男は、身内だから言うわけじゃないですけど、本当に努力家なんですよ。だから「ちゃんと真面目にやってればある程度のところまでは絶対行くから」「日本代表にはなれない。だけど28歳になったら、プロとしてお金がもらえるぐらいになるぞ」と言ってたんです。その言葉を信じて長男は努力してました。僕はそれを応援してました。弟と平等に応援してました。そうしたら長男は本当になりましたから。

僕がブリオベッカのテクニカルダイレクターに就任したのは、アフリカに行ったのがきっかけでしたね。

当時僕は解説の仕事とともにヴェルディで育成アドバイザーをやってたんです。僕は意見をガンガン出してたんですけど、どうもそれが当時のヴェルディとは違う方向だったようでした。ただ僕がその場にいる以上、文句を言っちゃいけないんです。当然ヴェルディのプラスになるように動かなきゃいけない。でも自分の中ではモヤモヤが大きくなってきてたんですよ。

ちょうどその時、2013年クラブワールドカップの解説でモロッコに行ったんです。そのとき、地元のラジャ・カサブランカが決勝まで行ってバイエルン・ミュンヘンと対戦したんですよ。そのラジャ・カサブランカを取材してたら、まあこのチームって読売クラブがそのまんま大きくなったような感じなんです。

ラジャ・カサブランカは本当に素晴らしかったんですよ。最高のメンバーがいて、すごいサッカーをして、有名じゃないけどみんなから愛されて。試合は0-2で敗れましたけどバイエルンといい勝負しましたからね。「読売クラブが自然に大きくなってたら、こういうふうになれたのにな」って思いが湧きましたね。

これに感動しちゃってそこで決断しました。僕はモロッコのホテルで、ヴェルディを辞めてブリオベッカに行こう決めたんです。新しいものを作ろうと。

日本に帰ってきて、すぐ「ブリオベッカに入れてくれ。金はいらないから」って。だから僕はテクニカルディレクターとして1円ももらってないんですよ。逆に払ってました(笑)。車譲ったりユニフォーム買ってあげたり、現金を出したりとか。本当にスポンサーでした。去年監督になってから初めてお金をいただきました。

だから本当に頑張りたいです。1人でもいいから日本代表選手を出したいというのが夢なんですよ。ここからの人生を真剣に情熱かけて、そこに向かっていきたいですね。

 

■最後の花道を用意してくれた加茂さんの男気

僕は1993年のドーハの悲劇の後に日本代表から外れてたんですけど、1995年に加茂周監督にもう一度呼んでもらったんです。

でもそのときのことを正直に言うと、ドーハから帰国して手術を受けたんですけど、その後、本来の自分のパフォーマンスに全然戻っていなかったですね。自分では、もう戻らないと思ってました。どんなに体を追い込んでも、もう昔のようなバネが消えちゃって。やっぱりある程度の年齢になった時にメスを入れるというのは、何十年も積み上げてきた小さな筋肉みたいなものに緩みを与えてしまうような、そんな感覚が体に起きるんですよ。

普通の大きな筋肉は戻っても、グッと踏み込んだ時にちょっと揺れるというか、これはなかなか説明が難しいんですけど、そういう感覚が出ちゃって。いくら追い込んでも戻らないという感じのまま過ごしてたんですね。

そう感じてた1994年に加茂さんが日本代表のセレクションをやったんですよ。これが僕にはビックチャンスで。セレクションって普通、何試合もやって選手を見極めていくわけですけど、候補選手の人数が多かったんで、三ツ沢球技場で15分のゲームを4本とか5本とか、そういうテストで決めたんです。

僕は15分だったら自信があったんです。本当に自分でもわかりましたけど、その時誰よりも素晴らしいサイドバックとしてプレーしたんです。で、加茂さんをごまかせて。「よっしゃごまかした。でもこれが90分になるときついな」ってずっと思ってました。

その後1月のインターコンチネンタルカップで使っていただいたりしたんですけど、75分ぐらいから急に緩くなるんですよ。そして緩くなるというのをごまかしてたんです。サイドバックってごまかすことが十分できるんですね。ただそれは誰かに迷惑を押し付けてるだけで、自分の中では「イヤだなあ」と思いながらやってました。

で、最後に加茂さんも気付き出すんです。「あれ、こいつちょっと緩んでたな」って。15分だったからよかっていうのがわかったと思うんです。

それで2月のダイナスティカップで香港に行った時、空港に着いた瞬間に加茂さんから「お前もう2戦目の韓国戦だけやからな」と言われたんです。どういう意味かと思ったら、韓国戦で僕を引退させるつもりだったんです。僕は韓国戦が好きだったし強かったから。加茂さんの男気です。感謝してます。

加茂さんはそういう気を遣ってくれる人なんですよ。ラモスさんも実はブラジル戦で引退させられてますから。加茂さんはなぜそうしたか一切言う人ではないんですけど、僕は本当にそう思ってます。昭和の監督の男気ですよ。加茂さんは最後に花道を用意してくださったと思ってます。本当に何かありがたいですね。

今の日本だと「そんな甘い事言うのはダメだ」っていう空気になるじゃないですか。昭和だとよくあった人情話なんですけどね。今はそういう人情がなくなってるんですけど、あと何十年かするとまたそういう時代が来ると思うんです。世界でもよくありますよね。2014年ブラジルワールドカップで、コロンビア代表のホセ・ペケルマン監督が日本戦の最後にベテランGKのファリド・モンドラゴンを出場させてあげたような。だから日本ももう1回、そういう人情話が称賛される時がくると思ってます。昭和の良さも釜本邦茂さんのすごさも、また日本人は大事にし始めるだろうと思ってます。

 

■ここの腸詰めは世界一。40年近く通う大事にしたいお店

僕は食べ物って基本的に箸を使うもんじゃないとダメなんですね。イタリアンもたまには食べますけど、どちらかというと好きなのは、和食と言うかちょっとB級に分類されるような焼肉とか焼き鳥とか中華とかそういうのなんです。街の中華屋さんとかですね。お酒も好きなんで、餃子とかレバニラ炒めとかそういうものの美味しい店を探して行っちゃったりというのが本当好きですね。

オススメのB級の店も沢山あるんですけど、今日のオススメは僕の中ではAランクに近いところです。高級中華みたいなものが好きな人はB級と思っちゃうかもしれないんですけど、僕の中ではAランクです。値段的にもね。

ここは本当に好きで月1回必ず行きます。何十年も通ってますから。渋谷の「台湾料理 麗郷」っていうんです。元日本サッカー協会会長の大仁邦彌さんは今でも行きつけですからね。昔、麗郷の上にある聚楽という場所で日本代表は合宿してたんです。泊まっているところの横の階段を降りたら下にあるという店です。

日本サッカー協会が岸記念体育館にあった頃からある店ですね。森孝慈さん(故人)が全日本の監督だったころも聚楽に泊まってましたし、麗郷では森全日本会も開かれたりしたんですよ。なので僕らもう40年近く通ってます。

食べ物のオススメは腸詰めですね。麗郷の腸詰めは世界一です。これだけは外せないです。昔の代表選手が行ってた、ずっと通ってた店ですね。大事にしたい店です。

今は三密なんで店内では食べてないんですけど、この前はお土産にしました。ぜひ腸詰めを持ち帰って食べてみてください

 

麗郷 渋谷店

 

→「サッカー、ときどきごはん」過去ログ:「スーパーサッカー」は守り抜いた……伝説のテレビマンが明かす中継の苦悩と舞台裏

 

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都並 敏史(つなみ・さとし)
1961年、東京都出身。読売サッカークラブの下部組織で育ち、1995年までヴェルディ川崎でプレー。指導者として東京ヴェルディのコーチ、ベガルタ仙台、セレッソ大阪、横浜FCの監督などを歴任し、2009年~2014東京ヴェルディ普及育成アドバイザー。2014年2月からブリオベッカ浦安のテクニカルディレクター、2019年から監督を兼任。
日本代表として78試合に出場。誰よりも日の丸をつけてプレーすることに魂を燃やしたその凄まじい情熱は『狂気の左サイドバック』(小学館)に詳しい。永遠のサッカー小僧。

 

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森雅史(もり・まさふみ)
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。2019年11月より有料WEBマガジン「森マガ」をスタート

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