【サッカー人気5位】Boa sorte(ボア・ソルチ)。優…

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9クラブを渡り歩いたが後悔しない……安田理大が悔やむたった一つのこと【サッカー、ときどきごはん】

(c)松岡健三郎

 

幼少の頃からガンバ大阪を見て育ち、育成年代からプロデビュー、日本代表入りまで同クラブとともに歩んできた。
気が付けば30歳を過ぎ、プレーしたクラブは海外を含め9クラブとなった。
今季は尹監督率いるジェフ千葉で捲土重来を期す。
イケイケな見た目や言動とは裏腹にときおりナイーブな面を見せる彼のサッカー人生は決して平たんではなかった。
これまでの歩みをじっくり振り返ってもらった。

 

■たくさんのクラブを渡り歩いて引っ越しがうまくなった(笑)

自分のサッカー人生って、正直、苦しいと思ったことなんてないですね。振り返ったら、「あの時そんなによくない時期を過ごしてたかもしれない」っていうのはあるんですけど、基本的にすごいポジティブなんで。

どんだけ悪いことが起きても、どうにかして消化してるというか。サッカー選手だったら試合に出てない時っていうのが苦しい時期だと思うんですけど、別にそんな、「めっちゃ苦しかったか?」って言われたら、そうではないと言うか。それにあんまり大きいケガもしたことないから。

去年、ジェフユナイテッド市原・千葉に加入したのがゴールデンウイークの4月30日だったんですよ。2018年にアルビレックス新潟との契約が終わったあとの3カ月は、横浜F・マリノスのキャンプに行ったのと、それから後は自分で体を動かしました。ジェフに入るまでプレーするチームなかった時は、周りの人からしたら苦しそうに見えたかもしれんし、苦しかったのかもしれへんけど……。

その時は、先が見えない苦しさというのが、もしかしたらあったのかもしれないですけど、自分の中では「どうにかなるやろ!」と考えてたのもあったし。トレーニングができなくて大変ではありましたけど、どこかのチームが練習する機会を与えてくれたらコンディションはすぐ戻るという自信もあったんで。もともとそんなに繊細ではないというか、野生児なんで、すぐコンディション合わせられるから心配はしてなかったですけど。

ただね、チームが決まってなかった間は僕よりも家族のほうが苦しそうで。僕はそういう家族の姿を見るのが苦しいですね。僕は大丈夫ですけど、周りの人が僕のことを思って苦しそうにしてるのが苦しいです。家族とか奥さんのほうの両親とか、普段お世話になってくれてる人たちとかが心配してくれてるのが辛かったですよ。

あとは、人から見るとたくさんチームに行ってることも家族にとって大変じゃないかって言われるんです。Jリーグだけで、ガンバ大阪、ジュビロ磐田、サガン鳥栖、ヴィッセル神戸、名古屋グランパス、新潟、千葉って7チームですから。おかげで引っ越しもうまくなったし(笑)。

いろんな地域に行って、そこの人たちと友達になったり、いろんな場所の道を覚えたりして僕としては楽しんでますけどね。付いてくるほうは大変かもしれないですけど。でも僕の奥さんはそういうのを一緒に楽しんでくれて、何も言わずについてきてくれるタイプなのですごい助かってます。

 

■チームがバラバラになっていくのが見えてすごく寂しかった

ガンバの下部組織で育ってそのまま2006年にプロになって、2007年ヤマザキナビスコカップに優勝したときは決勝点を取ったし、2008年北京五輪にも出て、何の問題もなかったんですけど、でも小さいときからずっと海外に行きたかったんですよ。それで2011年にオランダのフィテッセに移籍したんです。

移籍したときはガンバとの契約が切れてたんで、小学校のときから育ててくれたクラブに移籍金を残すことができなかったんですけど、あのときの状況からしたら、移籍金なしでしか行くチャンスがなかったんで、申し訳ないとは思いましたが、海外行きを選んだんです。

フィテッセは最高でしたよ。今でも引退したらオランダに住みたいと思ってますもん。それぐらい大好きです。やっぱり人間がみんな優しくて明るくていいですね。オランダにいるとき、ヨーロッパのいろんな国に行きましたけど、オランダが1番フィーリングが合ったというか。ご飯は終わってますけど(笑)。でもそれ以外の部分に文句は何一つなかったですね。最高でした。

2013年にフィテッセとの契約が終わったときは、他のチームから話もあったし、別の国に行って練習参加もしたりして、だいぶアピールもできて好感触もあったりしたんです。けど、なんかそれ以上「ヨーロッパにいたい」という気持ちを引きずって、プレーする機会がなくなるんやったらどうしようかと思ってたら、ちょうどジュビロから声がかかって。

最初、名波浩監督から電話をもらったんです。名波さんはちっちゃいころからすごく憧れていた選手だったし、好きな人やったんで、話をしていくうちに、もう自分の気持ちも傾いて。電話が来る前もプライベートでご飯連れて行ってもらったりとかすごくお世話になったりしてたんで。

もう1回日本で活躍したら海外に行けるチャンスがあるというのもわかってたし、プレーしないとサッカー選手でいる意味ってないってあのころは考えてたから、試合に出る機会を求めて日本に帰ったという感じです。

磐田に行ったときは、オランダのシーズンが5月に終わってから2カ月半ぐらいは個人で体を動かさなあかん状況で、ヨーロッパでいろんなチームにて練習参加したけど、コンディション的には正直そんなに良くもなかったんです。それから日本に帰ってきたら日本の夏ってすごく暑いし、サッカーの質もちょっと違うし。

だから久しぶりのJリーグに合わせるのは自分の中ではすごく大変で。8月末に加入したんですけど、その時点で出られる試合はもう10試合って限られてて、チームも難しい状況で降格してしまって責任を感じましたけど、磐田に行ったことを後悔はしてないです。

それで2014年に鳥栖に行ったんです。個人としてもう1回這い上がるためには鳥栖の1年に懸けなきゃあかんという気持ちがあった時、監督が今の千葉の監督の尹晶煥さんで、厳しくもう1回叩き直してくれたというか。そこで尹さんに会ってタイミングすごいよかったと思いますよ。

ただ鳥栖に行くまで金髪禁止っていうのは知らなくて、すぐ黒く染めたんですけど、まぁそんなんは全然いいんですけどね。千葉ではあの時よりルールとかってそんなにないというか、鳥栖のほうがルールも多かったし練習も全然厳しかったと思いますね。

その鳥栖の時の年齢が25歳で、体も1番バリバリ動く時やし、鳥栖っていうチーム自体が選手全員で戦うというスタイルだったんで、そんなサッカーとか周りの選手にも恵まれましたね。特に左SBの僕の前に韓国代表の金民友がいたのがよかったんです。あいつに生かされてたし、あいつを生かしてたし。今までサッカーやってきた中で1番フィーリングが合ったパートナーでした。民友は今、水原三星でプレーしてて3日前ぐらいもLINEしましたよ。アイツはめっちゃいい奴ですよね。

それで2015年は神戸に行くんですけど、その決断にはすごく悩みました。でも僕の中では鳥栖に行って尹さんに助けてもらったっていう気持ちあったし、その尹さんが突然半年でいなくなってショックだったし。もしあのまま1年間尹さんが監督を続けてたら、その年鳥栖は5位だったんですけど、もっといい順位まで行ったんじゃないかってすごい思ってたし。

それで神戸から話があって移籍したんです。それに一応大阪生まれですけど、小さいときは神戸で育ったし、もう1回関西でプレーしたいという気持ちもあったし。それでだいぶ気合い入れて神戸に行ったんです。オフ期間も普段しないような自主トレとかしまくって。でも、いざシーズンが始まってみたら、やっぱり普段しないことをやったらあかんと思いましたね。やりすぎて体のバランスを崩しちゃいました。1年間ケガが多くてね。張り切りすぎました。

そうしてると2016年に名古屋から声をかけてもらったんです。名古屋もチームのゴタゴタとかもあったし、なかなかうまくいかなくてJ2に落ちちゃって。チームがバラバラになっていくのが見えたというか、それがすごい寂しかったし、自分ももっとできたんじゃないかというのもありましたけど。それで気持ちを切り替えるために韓国に行ったんです。

 

 

■全所属クラブで単年契約にこだわってきた理由

2017年にプレーした釜山アイパークではチームメートに恵まれましたね。みんなすごい優しくしてくれたし、そのときの選手とかは今でも全然連絡取るし。今年、釜山の時のチームメイトで韓国代表だった選手がケガの治療のために日本に来てて、そのときも一緒にご飯食べましたよ。プレーしたときはK2リーグっていう2部リーグでしたけど、チームメートだった選手が今、韓国代表に2人入ってるし、すごいいい経験でした。

それで2018年に日本に戻ってきて、新潟に入ったんです。新潟ではリーグ戦30試合に出て、キャリアハイの6点取ったんですけど、チームの成績が良くなくて、途中で監督代わったりというのがありました。

新潟も今考えてみたら街としてはすごく好きやったし、めっちゃいいとこでした。いろんなとこ行って、いろんなとこ楽しめてるんですけど、新潟も最高でしたね。選手としては強いチームにずっと在籍するのがいいと思うんですけど、人生を振り返ったとき、いろんなチームに行っていろんな経験できたのは、なんかすごい今後の人生の役に立つかなと思います。

そして千葉に来てまた尹さんと会えて、つくづく自分は持ってると思いますね。まず千葉に来たとき、たまたまGMが僕を神戸に引っ張ってくれた高橋悠太さんだったし、去年、江尻篤彦監督でしたけど、江尻さんは北京五輪の時のコーチだったし。そうやって今までやって来た繋がりのある人たちが助けてくれると感じてます。

僕、子供が2人いるんですよ。去年から幼稚園に行きだしたんで、千葉で2年目を迎えて去年と一緒の幼稚園に行けてるから、タイミングよかったです。目標としては幼稚園卒業するまでは同じところに行かせたいですけど、そればっかりはどうなるかわかんないんで。

子供たちは父親がどういう職業がわかってきたんで、いいところ見せたいというのはありますね。今でさえ幼稚園に行ったら「お父さんがサッカー選手」っていうのは息子的に自慢な感じなんで。だからピッチで活躍してる姿をもっと見せたいというのは思いますね。これで今年また尹さんの下でやるってことになって、懸けてますよ、ホントに。もう1回、一花咲かせなアカンなと常に思いながらやってます。

ここまで大きなケガをしたことはないんですけど、いつケガするか分からないんで毎日集中して、自分の体と会話してやっていってます。いつ大きい怪我するかわからないし。調子に乗らずにやるしかないです。

いろんなチームにレンタルで行く人は多いですけど、僕は全部完全移籍なんで。そしてどこも単年度契約なんです。それは昔からのスタンスというか。1年よかったら給料は上がるし、あかんかったら給料が下がるというほうが保険がない気がして、選手として頑張れそうな気がするんで。でも今考えたら複数年契約でよかったという年もあります。もちろん金銭的な部分で(笑)。でもそういう選択してきたのが自分らしいなと思うし、全然後悔はしてないです。

 

■いま考えたら本当に最悪……サッカー人生で一番の後悔

日本代表に関して言うと、今となっては……それは後悔しますけどね。あの時もっとやったらよかったなっていう。後悔があるとすれば……サッカーやってて1番後悔するのは、日本代表に入ってた時ですね。

いやね、もうホントに、今考えたら最悪なんですけど、ガンバにいた20歳の時に日本代表に行くことになったんですけど、あの時は正直もう行きたくなかったです。こんなこと言ったらホントに怒られるし、最悪なんですけど、自分がまだそこまでのレベルじゃないというのがわかってたし。

それに周りを見れば自分が小さい時から憧れていた選手ばっかりで、なんかこう、そんなとこでやれる自信は正直あの時なかったし。勢いはありましたけど、自信は……と言うか、自分のレベルは自分で分かってたんで、なんかこう、ガンバでプレーして優勝とかいろいろ経験させてもらったけど、正直、「オレ、日本代表にいていいんか?」と思いながらずっとプレーしてました。

1番最初に代表に呼ばれたのは2008年1月の、岡田武史監督が就任して最初の指宿のキャンプでしたね。そのとき、3人組のパス練習みたいなのしたんですけど、組んだのが中村俊輔さんと高原直泰さんだったんですよ。

そんなん、もう若い奴らが日本のスーパースター2人と3人組して萎縮せえへんわけがないですよね。「ミスしたらやばい」と思いながらプレーしてたんで、そんな奴がいいプレーできるわけないじゃないですか。ゲームになったら自分のプレー出そうとしてましたけど、練習のときは「このメンバーでミスしたらヤバいわ」と思いながらでしたからね。

ああいうときにしっかりやってた奴が今残ってると思うし。(長友)佑都にしろ(本田)圭佑にしろ、岡ちゃん(岡崎慎司)にしろ。そうやってできる奴が上に行くんやというのは感じるんで、あそこまでいってる選手っていうのはすごく尊敬してます。

自分でも「佑都とは同じぐらいのレベルかなぁ」と思ってましたよ。でもなんかこう、自分がヘタというのもわかってたし。周りからの期待とかも実際感じてたし、その重圧に潰されたわけじゃないんですけど、自分が正直そこまでのレベルじゃないと自分がめっちゃ思ってました。自分は明るくパーっとやりますけど、気を遣って空気読みながらやってたんで。そんな奴ダメに決まってますよ。あの時の自分を今思い返してみて、「あんなん、あかんな」と思ってますもん。

そう考えると、突き抜けるぐらいアホか、相当自信家か、鈍感かっていう奴のほうがどんどん上には行くんやなぁって思いますけど。圭佑は凄いですよ。中学生のときからあれでしたからね。自分に嘘をつかへんというか、そういうのがあるんじゃないですか。

今の自分が指宿に向かっている自分に何か言えるとしたら、「調子乗らず、ひたむきに全部しろ」ってアドバイスしたいですね。あのとき、やってたけど、全然足りなかったですし、もっとしないとダメだと思います。もっと努力もせなあかんかったと思うし、もっと体も気持ちもコンディションも整えなあかんかっただろうし。すべてに対して準備できてなかったです。

まぁ過去の事は悔やんでも仕方がないんで。「何かもっとやっとけばよかったなぁ」とは思いますけど、考えたところでしょうがないんで、今を生きるしかないです。ただこういうのは若い奴にはどんどん伝えていきたいですね。

僕たちの代のほうがビビんない選手が多かったですよ。練習量も昔のほうが全然多かったし。ただ、練習をたくさんやればいいっていうのは思わないですけど。でも、何かもっと個人のキャラクターは昔のほうが強かったと思います。

結局は今もそういう強い奴が海外に行ったりどんどん活躍してるし、そういう人としての強さというのが絶対必要やと感じますね。「サッカー選手としての強さ」の前に「人としての強さ」のほうが大事かなと、最近思ってます。

日本代表のサイドバックは、酒井宏樹や酒井高徳のあと、なかなか出てきてないですね。そこは出てきて欲しいと思います。何やかんや、やっぱり佑都が1番いいんじゃないですか? でも、もし今年僕がいいプレーしたとしても、代表には僕より若い奴が行ったほうがいいですよ。若い奴がどんどん出てこないと、これから日本はよくならないと思うし。それに今やJリーグでMVP取っても代表に行けない時代ですからね。もちろん日本代表というのはプレーしてる限りは狙うところだと思いますけどね。

サイドで「いいなぁ」って思う選手は、Jリーグの中にたまにいたりしますけど、コンスタントにいいと思う選手はなかなかいないですね。いいって思うのはそれこそ高徳とか西大伍とか、そういう選手ですね。自分よりちょっと下の年代の選手がいいなと思います。サイドバックは活動量とともに経験も必要になってきましたからね。

でも若い奴で経験がないんやとしたら、とりあえずアグレッシブに、ミスしてももう1回行ける選手がいいですね。攻撃でがむしゃらに行ってミスしたら戻って、何回ミスしてもどんどん仕掛けていけるような選手が現れてほしいです。

自分もそうやったかもしれないけど、今はそういうがむしゃらさを出すよりも、年齢的にも周りを使いながらやらないといけない歳なので。それに僕はこんな感じで、元から落ち着いてる性格なんですよ。見た目は結構イケイケ系なんで、そう見られがちなんですけど、性格は自分でも落ち着いてると思いますけどね。いろんな経験してきてるんで(笑)。

 

■オランダで心の支えになっていた“母の味”

オススメのレストラン、うーん、パッと思い浮かんだのは3つですね。オランダに行ってた時、僕のチームはドイツとのほぼ国境だったんですけど、そのときドイツによく行ってたイタリアンレストランがありました(笑)。

あれどこだったかなぁ。レストランの名前は覚えてるんですけど。「テアトル」って名前だったんです。そこのトマトスープがめっちゃ美味しくて。当時ドイツとオランダにいろんな日本人選手がいっぱいいましたけど、行ってたのは僕だけでしょうね。誰にも教えてないし。

デュイスブルクの近くのオーバーハウゼンっていう街のショッピングモールに入ってるんです。オーバーハウゼンのショッピングモールに行って、適当に入ったらメッチャ美味しくて。結構行きましたね。そこは。

もう一つもオランダですね。アムステルダムにホテルオークラがあるんですけど、その前の通りにある日本料理屋さんで「オランダ屋」っていうところです。アムステルダムに行ったら絶対そこでご飯食べてます。

そのお母さんがすごいいい方で、オランダでプレーしてたときは1人で行ってたんで、食べに行ったら毎回、次の日食べるおにぎりを握ってくれてたりとか、おかずとか一杯作ってくれて持ち帰らせてくれたりしてて。オランダで試合出られへんかったときも、常に食事でサポートしてくれて。

だから今でもオランダのお母さんが日本に帰ってきたら絶対会うし、連絡も取るし、息子さんと娘さんが今、都内の大学にいてその2人も知ってるし。この人とは一生関わっていくんやろうなってくらいお世話になった人です。

お母さんが長崎県出身なんですよ。長崎っていえばちゃんぽんじゃないですか。「オランダ屋」ではそのちゃんぽんがメッチャ美味しかったですね。オランダにはそういう料理ないんでね。そこでちゃんぽん食べてっていうのが楽しみでした。日本食を食べてノスタルジーに浸るというか、心の支えになってました。

最後は韓国でプレーしてたときに週3回から4回行ってた店があるんです。釜山の街にある、店の名前はなんやったかな。料理名は「マッククス」と言って、たぶん北朝鮮との国境の場所の料理なんですけど、そば粉100パーセントの蕎麦にちょっとキムチが入った辛いスープみたいなんに氷が入ってて、言ってみたら冷麺みたいなものの麺が蕎麦っていう。これは最高です。

レストランの場所は釜山の空港から10分ぐらい、釜山のクラブハウスから5分ぐらいのとこなんです。ナクトンガン川の側のハンミョンドンにロッテマートがあって、そのロッテマートの先にあるんですよ。日本でもその「マッククス」が食べたくて新大久保とか調べたんですけど、ないんです。これはもうどうにかして日本に持ち込んできたいですね。

この3つは思い出ですね。パッと出てきました。特に海外にいるというのは食だけが楽しみというところもあるんですよ。だからより食と思い出が繋がるんですね。どれも最高ですよ。近くに行ったときは、ぜひ探してみてください。

 

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安田理大(やすだ・みちひろ)
1987年12月20日生まれ。5歳のときに神戸市から大阪吹田市の万博近くに引っ越し、ガンバ大阪のサポーターに。ガンバのジュニア、ジュニアユース、ユースでプレーし2006年にトップ昇格。2007年のナビスコカップ(当時)では優勝に貢献し、ニューヒーロー賞とMVPをW受賞。2011年にオランダのフィテッセへ移籍し、2013年からジュビロ磐田、サガン鳥栖、ヴィッセル神戸、名古屋グランパス、釜山アイパーク(韓国)、アルビレックス新潟を渡り歩き、2019年の4月からジェフ千葉でプレー。日本代表は2008年から2011年で7試合に出場。

 

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森雅史(もり・まさふみ)
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。2019年11月より有料WEBマガジン「森マガ」をスタート

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