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携帯も触りたくないくらいだった……ヒール・岩下敬輔はルールのせめぎ合いの中で生きた【サッカーときどき、ごはん】

嫌われ役もいとわないプレーには彼なりの矜持と覚悟、そして葛藤があった。
プロになって16年間戦い続け、ボロボロになってスパイクを脱いだ今、
ヒールの知られざる内面に迫ってみた。

 

■握手する気がなくなるとき……やられたらやりかえしたりもした

サッカー選手って、いつも上手くいかないことばかりじゃないですか。そのときどきで必死にやってるんだけど、毎回壁みたいなものがあるんですよ。でも僕はどうしようもないということがなかったですけどね。

もっとしんどいことを経験してる先輩たちが近くにいたんで。市川大祐さんはケガが多かったですし、小野伸二さんは一番いいときにケガしたりとか。若いときはチヤホヤされてたけど壁にぶち当たってすぐ消えてった選手を見たりもしました。僕にはそんなとんでもない壁はなかったと思いますね。

ただ僕はいろいろ非難されるタイプのプレーヤーだとは思ってました。でも「自分が叩かれてもチームは勝てる」ことがあると分かって飛び込んだ世界だったし、勝負事の中でそういうのは付きものだったと思います。

ルールの中でやれればいいですけど、ルールの中か外かのせめぎ合いでもありましたし。一瞬に人生を賭けてやってて、その1プレーでどんなにでも変わるわけじゃないですか。だから面白いと思ってました。

退場しないギリギリのラインでチームを勝利に持っていけるというポジションを務めるわけですから。僕がイエローをもらってもチームが勝った、負けなかったと感じることが出来たゲームもたくさんあって。

2015年、ガンバ大阪にいたとき川崎フロンターレと対戦して、1-1の後半アディショナルタイムに大久保嘉人に抱きついて止めたんですよ。あのときゴールを入れられたらやばかったですからね。ゴールからはまだ遠い場所だったんで、そこで抱きつかないと退場になってたし。すごく叩かれて、僕は悪口気にしちゃうタイプなんで、それはしんどかったですね。

ただ、2013年ぐらいからはだんだんプレーが丸くなってきてたんですけどね。27歳で子供が出来てから。子供を意識すると振る舞いだったり発言もだんだん丸くなって牙も抜けたと思ってました。

僕の子供が僕のプレーを見るぶんには全然いいんですけど、周りの子供たちがどう思うかと考えたら、考えることがあって。もちろん体を張らなきゃいけない時とか駆け引きしなきゃいけない時って大事だと思うんで、芯のところはブレないんですけど、余計なことはしなくなったと思いますね。昔はボールと関係ないところでも駆け引きしてたりしましたから。そういうのも含めて駆け引きと思ってたんで。

あと試合後に相手選手と握手しなかったりしたのはまた別で、そういうことってあんまりしてないんですけど、試合中に唾を吐かれたりすると握手する気がなくなってたんで。そこは譲れない線があったから。昔は唾かけられるなんてしょっちゅうですよ。とんでもないスーパースターもやったりしましたから。やられたらやりかえしたりもしてましたけどね。

 

■間違いなく自分よりワルだった長谷川健太と間違いなく自分を好きだった西村雄一主審

清水エスパルスにいたとき、監督のケンタ(長谷川健太)さんからは、「お前が退場しないギリギリでしか冒険できないんだったら、そこで勝負すればいい」と言われたこともありました。突き放されたりもしましたけど、その言葉は心に残ってます。僕の性格をよく理解してくれてやってくれてたと思いますね。

僕を肯定するわけじゃないんですけど、「自分が起こしたことの責任は自分で背負え」って。「でもお前をチョイスしてるのはオレだから、責任を持ってプレーしてくれ」って言われました。

ケンタさん、怖かったですけどね。ただ、僕がエスパルスに入るとき、熱心に誘ってくれたのはケンタさんの前の石崎信弘監督だったんですよ。石崎さんが辞めて誰が次の監督になるんだろうって思ってたんです。ケンタさんだって知ったのは清水入りして入団会見の前の日ですよ。

入団して最初の合宿が鹿児島で、ケンタさんも初指導で、その初日に怒られたんですけど、それは理由があって。

全国高校サッカー選手権の決勝で右足の甲を蹴られたんです。入団した後もまだずっと痛かったんですよ。それで練習のときにリフティングがあって、「右足だけで」って指示されたから何回か右足でやろうとしたんですけど、ボールを落としちゃったんですよ。

そうしたら「プロになってるんだから、リフティングでボールを落とすな」って言われたんでそのあと左足でやってたんですけど、それ見て「お前、『右足で』って言ってるだろう」って言われて。

「痛いんですけど」って言いたかったんですけど、とても言えなくて。「お前、無視してるのか」って感じで。だから「痛くてもやるしかない」ってやりました。メッチャクチャ怖かったんです。たぶん間違いなくケンタさんは僕より悪かったと思います。武勇伝聞いてるととんでもないから(笑)。

でもケンタさんはみんなが疲れてると思ったら、昼ご飯のときに練習場の端っこでバーベキューしたり、東京から連れてきた料理人の人に鍋作ってもらったりとか、食事会を開いてくれたりしてたんです。

お酒も飲んで良くて、「飲みながら話をしろ」って。だからその日は前もって全員車を置いてこいって言われるんです。そういう選手とのコミュニケーションの取り方とか、自分が選手だっただけあって選手の温度とか敏感に感じ取ってくれてました。

ケンタさんってたぶん、僕がやってることなんて「かわいいな」と思ってみてたと思いますよ。それで全部受け入れてもらってたと思うんです。いろいろトラブルがあったときも「お前の中で譲れないところはあったとは思ってるから、その上でしっかりプレーしろ」って。

そのあと僕が2012年にガンバ大阪に移籍して、2013年からケンタさんがガンバの監督になるんですけど、「僕がガンバに付いてった」って言われてるんです。ファンの人から「お前、ケンタファミリーだな」って言われるんですけど「違う」って言えるわけもなくて。でもケンタさんじゃなかったら、こんなに長いこと現役生活を送れなかったというのは間違いないって思うんですよね。

2014年ヤマザキナビスコカップ(現・ルヴァンカップ)で優勝したときって、サンフレッチェ広島との決勝で僕が主役みたいになっちゃいましたからね。20分にハンドでPKを取られて先制点を決められたんですけど、今の基準だったらPKにならないんです。すぐ近くにいた相手選手の蹴ったボールが手に当たっただけなんで。

レフェリーとの相性もあったかもしれないんです。西村雄一さんなんですけど、現役時代の16年間で3回も退場させるレフェリーっていますか? 多分西村さん、絶対オレのこと好きっすよ。1人の選手に何枚カードを出せるかって記録を狙いにいったんじゃないかって(笑)。たぶんオレがダントツで1位だと思うんですけどね。

 

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