【サッカー人気5位】【J1騒乱】[熱論]優勝カウントダウン…

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僕はなぜカズさんを使おうとしたのか……下平隆宏が気付いた『1つの歯車』【サッカー、ときどきごはん】

 

2021シーズン途中で横浜FCの監督を解任された。
柏レイソルを指揮したときと同様、輝かしい実績もあげながら最後は志半ばで去ることになった。
指導者として味わった成功と辛酸。
下平隆宏はいま何を想うのか?

 

■最後は自分からクラブを離れたほうがいいと思った

今は自宅のある柏で家族とゆっくり過ごしています。7月には自分の地元の青森に帰省してお世話になった方々に挨拶したり、昔のサッカー仲間と会ったり、実家でのんびり過ごしながら今までできなかったことをやってました。

そのときに「折角帰省してるのなら地元のクラブチームを指導してほしい」と言われて、いろんなカテゴリーの指導をしたんですよ。4月に監督業を辞めてから3カ月ぶりの指導でしたけど、久しぶりの現場は楽しくて思わず熱くなってしまいましたね。

そしてこれまでを振り返ったときに自分のサッカー人生は本当に恵まれていると思いました。もちろん自分だけの力だけではなく、いろんな人の支えがあってのことだと思いますし、人との巡り合わせや出会いも大きかったと思います。

2016年、僕は柏レイソルのコーチだったんですけど、3月にミルトン・メンデス監督から引き継ぐ形で監督になりました。トップチームのコーチになったのはそれが初めてでしたね。

就任したときは3試合で勝点1という状態でしたが、セカンドステージでは5位になることができました。2017年のリーグ戦ではアカデミー出身の選手をどんどん起用して4位になり、ACLプレーオフ出場権を獲得することができたんです。

監督として実質3年目の2018年は、ACLプレーオフに勝って本大会の出場権を獲得して、JリーグとACLの両方を戦うことができました。ACLはタイトルを狙おうと臨んだんですけど、なかなか勝ち切れないゲームが続いて、残念ながらグループリーグで敗退してしまいました。

その影響もあってか並行して戦っていたリーグ戦でもなかなか結果の出ないゲームが続いてしまって、5月12日に川崎フロンターレに負けたことで監督を退くことになりました。その時点での成績は11位でまだJ2降格圏ではなかったんですけど、2017年がいい成績だったから期待も大きかったのもあって退任することになったんです。

だけど監督を退任した1週間後に強化部のダイレクターに就任したんです。監督を辞めてすぐにそのチームのダイレクターになるって、あまりない事例ですよね。

レイソルには選手時代から長くお世話になってましたし、指導者としてもここまで育ててもらった感謝の気持ちもありました。だから、指導者とは違う立場になるけど少しでもそういった思いをクラブに還元できればと思ったんです。

レイソルとしても僕と長期の契約を結んでいたこともありましたし、様々な思惑もあったと思います。監督としての未練は当然ありましたが、クラブからは「一旦退いて、ダイレクターやって、またタイミングが合うときに監督をやればいいよ」という雰囲気で言われたんです。僕も悩みましたけど、ダイレクターを引き受けることにしました。

ダイレクターの仕事は監督業とはまた違った重い責務を負う仕事でしたね。後任の監督にはヘッドコーチから昇格した加藤望さんが就任したので、望さんが目指すサッカーへのサポートと選手の補強が主な仕事でした。

特に夏のウィンドーに向けた選手の補強の準備は後期を戦う上では重要な仕事でした。監督とクラブの間に入って、監督のリクエストする選手をリストアップしてクラブと相談し、獲得を目指すんです。監督からはCBとFWの補強をしてほしいと強い要望がありました。

CBには以前レイソルにも所属していて、当時スペインでプレーしていた鈴木大輔を補強することができました。彼の守備力と経験、リーダーシップは必ずチームの力になると確信してました。

そしてFWには監督から「サイズのある大型FW」というリクエストがあったので、3人の外国人ストライカーをリストアップしました。そして最終的に1人に絞って決めたのがマイケル・オルンガだったんです。

彼のプレー映像は何度も見返してもすごかったですね。抜群の得点感覚と身体能力がやはり際立ってました。しかし当然それだけではJリーグで活躍できる保証にならないんですよ。得点力だけでなく守備力も求められるということに加え、戦術的な理解力や日本の生活への順応性も大事になってくるんです。

映像を見る限り守備は献身的にしそうだし、戦術理解度はあると感じたんですけど、どうしても性格的な部分までは分からないし、日本に順応できるのかという不安はありました。正直に言うと、もう最後は「ケニア人初のJリーガーも面白い」って「賭け」でしたね。

でも彼が日本に来て初めて一緒に食事に行ったとき「心配ない」と感じました。彼と話をして人間性も間違いないなと実感できたんです。

馴染むまでには少し時間がかかったけど、その後の活躍は素晴らしかったですね。2020年、横浜FCの監督していた時にレイソルと対戦して、そのオルンガに2点取られて負けたんで、彼のすごさを痛感させられましたよ(笑)。

それからレイソルの2020年に向けた新人選手の獲得にも携わりました。そこで獲得したのが上島拓巳です。彼はレイソルのアカデミー出身で、中央大学に進学しレギュラーを確保していて、すでにJ1のチームからもオファーを受けてたんです。

でも僕がU-18の監督だったときの教え子でもあったんで、「レイソルに戻って来てほしい」と口説きました。彼の同期の中山雄太や手塚康平など優秀な選手もレイソルにいましたし、レイソルアカデミーから大学経由でのプロ1号になってほしいという思いもありました。

そういう選手の獲得以外にも、ダイレクターの仕事は多岐に渡ります。何よりチームを勝たせないといけない。現場で起きてる問題を解決し結果を出す。それが大事な任務だと思っていました。

しかし一度狂った歯車は簡単には戻らなかったですね。なかなか成績が上がらないチームをうまく助けることができなかった。結局最終的にはJ2に落ちてしまったんです。シーズンのスタートは監督、それからダイレクターとして責任は自分にあると強く感じました。それで自分からクラブを離れたほうがいいと思ったんです。

責任をとる形でクラブを去ることになり、もちろん最後は辛い思いもしました。でもレイソルでは長くU-18の監督として多くの選手をトップチームに昇格させることができました。そのアカデミーの選手たちをベースに外国人選手や補強した選手を加え、攻撃的なスタイルをトップチームでも採用してチーム作りはできたと思います。

そういった自分の指導者としてのスタイルが違うクラブでどこまで通用するのか、勝負してみたいと思ったんです。それで、やっぱり現場に戻りたいという気持ちもありましたから、レイソルを離れて指導者で勝負しようと考えたんですよ。

 

■この世界で生き残るために必要なものは……

自分のサッカー観として「常に攻撃したい」というのがあるんです。自分たちで主体的にボールを持つことが好きだから。

ボールを持つこと、特に「ビルドアップ」は攻撃する上で重要視している部分で、GKを含めたビルドアップが攻撃の第一歩になると常に考えてます。安定したビルドアップから前進することができれば当然攻撃する回数は増えるし、単純に守備の回数が減る。そうなるとゲームをコントロールできる確率が増えて勝率を上げられるんです。

そういったゲームモデルからのチーム作りは得意としてる部分でもあるし、自分の中でもすごくこだわってるところなんですよ。自分たちがどういったゲームモデルで戦うのかはすごく重要だと思っています。もちろんプロの世界なので勝敗は常に付いてまわるけど、自分たちがゲームモデルに沿ってプレーすることで、修正や積み上げも自ずと見えやすくなるんです。

「自分たちがこういう配置に立ってボールを持つと、相手はどう奪いにきて、どこにスペースができるのか」というのを想定してゲームを考えてるんです。そしてできたスペースには誰が入っていったほうがいいだろうかと考えます。

あとは「フリーマン」と僕は言うんですけど、相手GKが前に出てこない限りフィールド上には必ずフリーな選手ができるので、そのゲームの中でフリーになりそうな選手を事前に考えるんです。それを事前にミーティングでアナウンスし、トレーニングで落とし込んだり、ゲーム中に修正したりします。特に攻撃の部分では、決定的な場面につながるキーとなるスペースを逃さず突いていけることも重要になってきます。

相手エリアの残り30メートルのところは、かなりシビアなスペースとタイトなマークになってくるので、そこは選手の持ってるタレント性だったり、アイディアだったり、時には身体能力も必要になってくると思ってます。

そんなスタイルを確立したのは、レイソルアカデミーのときなんですよ。当時のレイソルアカデミーは一貫してボール保持のスタイルでやってましたから、そこで指導者としてベースができてました。

そういった一貫したスタイルで、2012年にはクラブユース選手権で初優勝したんです。当時の主力には、秋野央樹、中村航輔、中川寛斗、小林祐介、中谷進之介など優秀な選手たちがいました。2014年はプレミアリーグイーストで初優勝を飾ることができましたし、中山雄太、手塚康平、上島拓巳、伊藤達哉など多くの選手をプロに輩出することができました。

そのU-18の監督を6年間務め、毎年トップチームに選手を昇格させることができたり、他クラブでプロになったりする選手を育てる仕事は非常にやりがいのある仕事でしたし、指導者としても自信につながりましたね。

U-18時代の一番の思い出は、天皇杯でトップチームと戦ったことですね。当時はだいぶニュースになりましたけど、第92回天皇杯で、千葉県代表として予選を勝ち上がり、天皇杯1回戦を突破して2回戦で念願のトップチームと対戦したんです。

日立台のスタジアムでの試合でしたが、電光掲示板にレイソルの二つのロゴが並んだ時は不思議な感覚でしたね。結果は0-3で負けるんですけど、トップチームは当時もネルシーニョ監督で、前年MVPだったレアンドロなどガチなスタメンできてくれて真剣勝負できたことはいい思い出です。

だから2016年にクラブから監督就任の打診をされた時には、「アカデミーでやってたサッカーをやらせてほしい」と話しました。トップチームには多くのアカデミーで携わった選手たちがいましたし、アカデミーからトップチームまで一貫したサッカーができればクラブとしての意義だったり、他クラブにはない優位性も保てるのではないかと思いましたし。

そして2017年で4位になりACLプレーオフ出場権を獲得したことは、クラブとして一貫したサッカースタイルを確立しながら結果を出すというのが、だんだん形になってきている手応えがあったんです。それだけに、2018年シーズンの途中で監督を退任することになった時は、道半ばで断たれてしまった感が強くて、心残りでもありました。そこでもっと実力をつけなければこの世界では生きていけないということも実感しましたね。

レイソルを離れることになったあと、次のチーム探しをしなければいけなかったので、よりいろんな情報を得るために代理人をつけました。最初は監督として受け入れてくれるチームを探していましたが、コーチという選択肢も増やして、声をかけていただいたいくつかの中からカテゴリーや条件面などいろいろ考えた末、最終的に横浜FCのコーチとして行くことに決めました。

横浜FCは2018年、J2で3位になって昇格プレーオフに行き、惜しくも昇格を逃していて、2019年こそはとJ1昇格を本気で目指しているクラブでした。クラブ規模的にはまだそこまで大きくなくて、環境面含めても発展途上のクラブという印象でしたね。でも社長をはじめ、GM、フロントスタッフ、現場とそれぞれが一体感を持ってJ1昇格を目指していて、クラブ全体に熱気を感じたんです。それと横浜という街への地域貢献にも非常に努力してるクラブでした。

そこで2019年、タヴァレス監督の下、コーチとして支えながら悲願のJ1昇格を目指すリーグがスタートしたんです。けれど開幕からチームの調子が上がらず、勝ち点を伸ばすことができなくて13試合終えた時点で14位と、J1昇格を目指すチームとっては痛すぎるスタートダッシュ失敗でした。

そうしたら13節を終わったあとにクラブから「次の試合から監督でお願いします」と言われて、またコーチから昇格する形で監督を引き受けることになったんです。ただ、リーグもすでに3分の1が過ぎていて、ここからプレーオフ圏内の6位まで持っていくだけでも相当ハードルが高い、難しい仕事だと思ってました。

それにタヴァレス監督の志向していたのは、マンツーマンベースの守備から、イバ、レアンドロ・ドミンゲスのカウンターで勝負するスタイルで、自分が得意としやってきたスタイルと真逆だったんです。だからどうやってチームを立て直していくか悩みました。けれど、GMから「シモさんのスタイルでやってほしい」と言ってもらって、それで吹っ切れて監督を引き受けたんです。

 

 

■カズ起用にまつわる噂の真相

それからチームの大改革ですよ。僕が採用したのは、システムはもちろんスタイルが真逆だったので、とにかくミーティングを増やし、サッカーを理解してもうところからスタートしました。

ご存知のとおり、横浜FCには、カズ(三浦知良)さんを始め、南雄太、松井大輔など、ベテランという枠だけでは言い表せないサッカー界のレジェンドが多く在籍していましたから、彼らの理解がなければスタイルの変換は難しいと思っていました。

そうしたら、本当に幸いなことに、選手たちがすごくいい反応をしてくれたんです。彼ら経験のある選手たちが賛同してくれたことで、チーム作りは思った以上にスムーズに進んでいったと思います。

ただ、最初は選手たちも大変だったでしょうね。なにしろ僕はボールを失わずに前進させたいので、ポジショニングやボールの置き所、体の向きなど、事細かく指導したんです。今までプロサッカー選手が当たり前のようにやってきたことを、今さながら細かく指摘されるわけですからイヤだったでしょうね。

それでも技術的に上達したり僕のサッカーを理解したりいていくうちに、ボールが回り始めて、チームが成長していくのを選手たちも感じてくれたと思います。そうやって得た自信が結果にも現れて、リーグ戦中盤にはプレーオフ圏内が見えてきたんですよ。さらに夏の補強で中村俊輔がチームに加わって、チームはさらに安定感を増しました。

そして最終的にチームは勝ち続けて自動昇格の2位に入り、悲願のJ1昇格を勝ち取ることができたんです。クラブ一丸となって戦えたことと、選手たちの努力がこの偉業を成し遂げた要因だったと思います。

それから古巣のレイソルと一緒に昇格できたことも何かの運命だったのかなと思いますね。自分個人としても、レイソル以外のチームで監督として結果を残せたこと、レジェンド級の選手たちとお互いにリスペクしあいながらチームマネージメントできたことは自信になりました。

ちょっと余談なんですけど、よく聞かれる質問で「カズさんをコンスタントに使ってくれとクラブから言われてるんじゃないか」というのがあるんです。これは本当に一切ないです。少なくとも僕が監督をやってたときは1回もないです。

むしろ、カズさんは普段のトレーニングからめちゃくちゃ100パーセントで、先頭引っ張ってやってくれるんで、「こんなに頑張ってくれてる人はどこかのタイミングで試合で使いたい」と思わせるんです。

上からの圧力とかではなくて、しっかりトレーニングしてるのを見た上で判断しますし、やっぱりカズさんが試合に出ることで、もちろんファンやサポーターもすごい盛り上がりますし、ニュースになれば日本全国の人たちが元気もらえたりします。

カズさんはそういったパワーを持ってましたし、単純にベンチに入ってウォーミングアップするだけでチームの雰囲気がもっといい感じに変わったということもありました。選手としても、トータル的にもやっぱり十分価値があるって思ってましたね。ありがたい存在でした。

2020年はJ1残留を目標にスタートしましたんですけど、新型コロナウイルスの影響でJ2降格のないシーズンになりました。ただ、J1に定着していく上でも自分たちのスタイルで戦えるチーム作りを意識して、降格はなくとも降格圏でのフィニッシュは避けようと言い続けてました。いろんな課題もありましたけど、最終的には15位で終了できたので、最低限の目標は達成できたと手応えはあったんです。

でもね、やっぱりサッカーって1つ歯車が狂うと難しいんですよ。

僕は2020年までに積み上げてきたビルドアップをベースとして、さらに攻撃力を増したいと考えていました。だからFWを積極的に補強し、得点力を上げることにトライしていたんです。キャンプでも順調に仕上っていって手応えもありました。ところが2021年の開幕戦で札幌に1-5と大敗したんです。

攻撃に手応えが出てきたことで全体的に前に急ぐ傾向が出てきました。確かに早めにボールを前に入れることで得点のチャンスにはなりそうな場面は増えたんです。でもボール保持率が下がり、落ち着かないゲーム展開が増えました。

言い方を変えれば雑な攻撃が増えてボールロストし、結果的に守備に回る時間が増え失点を重ねてしまうことになったんです。またボールを保持することで可能にしていたトランジションの強度が下がったので、前からのプレスも弱まり、全体が下がって守備をすることになっていったんですよ。

そこからチームは自信を失っていき、リーグ戦では勝てないまま8試合で解任されることになりました。2021シーズンは4チームが自動的に降格することになっていたので、いろんなクラブが危機感を持って早めに監督交代に踏み切ったと思います。

攻撃を強化しようと考えたことで、攻守においてチームのバランスが悪くなってしまったと思います。その結果、自分が一番大事にしていたものができなくなっていた。そう反省しています。ただ、自分としては課題も明確だっただけにもう少し時間を与えて欲しかったんですが……チームは生き物とよく言いますが、本当にそう痛感しました。

 

■解任後に続々オファーも……自らコンタクトをとったあるクラブ

4月に横浜FCの監督を解任になってから、ありがたいことに立て続けにいくつかオファーをいただきました。でもその時はまだ自分自身で整理がついてなかったこともあり、すべてお断りさせていただいたんです。たぶんあのまま、新しいチームを指揮してもいい結果は出せないと感じてました。

自分の中で、もう一度頭をクリアにする時間も必要だと思って、代理人を通じて横浜F・マリノスにコンタクトを取ってもらいました。横浜FMを率いていたアンジェ・ポステコグルー監督のサッカーには以前から興味を持っていましたし、違うものを吸収したいと考えて勉強させてほしいとお願いしたんです。

するとポステコグルー監督も僕のサッカーは興味深かったし、僕にも興味があったと言ってくださって、マリノス側も研修という形で受け入れてくれることになりました。

そうしたらトレーニングはもちろん、スタッフミーティング、選手へのミーティング、そして試合当日のホテルでのゲームミーティングまで帯同させてもらえたんですよ。非常に有意義な時間を過ごさせてもらいました。

またポステコグルー監督とも何度か話しをさせてもらって、サッカー哲学やチームマネージメントも学ばせてもらいました。何より刺激的だったのは、監督の強い信念でしたね。徹底してやり抜く強い気持ちには共感する部分がとてもありました。

その後、ポステコグルー監督にセルティックからオファーが届いて僕の研修は終わりましたが、受け入れてくれたマリノスとポステコグルー監督にはずっと感謝しています。

今、僕は息子が所属しているサッカーチームの指導を手伝ったりして、息子との時間や家族との時間も大切にしながら過ごしています。サッカーの指導者って家族と離れて暮らしてる人も多いんですよ。僕も単身赴任で離れてたから、こうやって家族とゆっくり過ごす時間はとても貴重な時間だと感じています。

だけど最近、「どこかからオファーがあれば行きたい」と気持ちが変わってきました。自分の中で何が問題だったのか整理できたからだと思います。いつオファーが来てもいいように、スポーツジムに通って体を鍛え、健康面も含めて、いつでも現場に立てるように体は維持しています。ポステコグルー監督に刺激を受けて英会話の勉強も始めたんですけど、そっちは苦戦中ですね(笑)。

 

■中田ヒデと一緒に呼ばれた日本代表で味わった悲運

現役としては33歳までプレーしました。18歳でレイソルの前身の日立製作所サッカー部に入り、その後プロ化に伴ってレイソルでプレーするようになりました。

このままレイソル1本で現役を終わるのかな、とぼんやり思っていたんですけど、29歳になった2001年にFC東京へ移籍したんです。レイソルの契約更新の時期に強化部から呼ばれて、「FC東京からオファー来てるから行ったほうがいいぞ」みたいな感じで言われて。「僕の来年のレイソルとの契約は?」って聞いても、あるのかないのかわからない感じなんですよ。「行くだろう?」みたいな感じで。

年齢も上がってきてましたし、クラブとしては出したいんだろうなっていうのは何となく感じたんで、「だったら行きます」って。それに、その当時、FC東京は大熊清さんが監督で、わざわざ柏まで来ていろいろしっかり説明もしてくれて、「チャレンジしたい」と思わせるようなプレゼンもしてくれたんです。

それでFC東京に移籍したんですが、やっぱり1つのチームしか知らないより、別のチームでプレーしたのはよかったと思いますよ。チームが変われば知り合う選手や人も違ってきて交流も増えるし。いろんな幅が広がるという意味では絶対行ってよかったと思ってます。

完全移籍でFC東京に行ったんで、FC東京に骨を埋めるつもりでした。FC東京で長くプレーできればいいな、と思いながら行ったんですが、2年で満了なっちゃったんです。

そのときJ2のチームから話があって、そのチームに行こうかと思ってました。ただ一応レイソルの強化部の方に、「このチームに移籍しようと思ってます」という一報だけ入れたんです。

そうしたら「ちょっと待って。うちもボランチ探してるんだよ」って言い始めて。「戻ってくるか?」って聞かれたんで、「いいですか? 僕は古巣なんで戻りたいです」って、そこでレイソルに出戻ることになったんですよ。

そこからレイソルでまた2年現役をやって、結局また契約が終わって。そのときレイソルからスクールのコーチの話をいただいて、引退する道も勧められたんです。

そのときもJ2のクラブから話をいただいてたんですけど、戻ってきた身なのにスクールのコーチという指導者の役も与えてもらえることに恩を感じて、「ここは潔く引退しよう」って。あとはレイソルのために仕事していこうという感じでした。

もうプレイヤーのときの自分はもう忘れてますね。ただチームを落ち着かせたりとか、穴を先に読んで埋めていくことは意識してました。派手なことがあんまりできないプレーヤーだったんで、地味に穴を埋めてくっていうのをやってました。

日本代表にも選ばれて合宿には参加したんですけど、結局キャップ数はゼロなんですよ。1997年5月の日韓戦に、ヒデ(中田英寿)と一緒に初めて呼ばれて、一発勝負の日韓戦だったのでもちろん出番なく終わったんですね。

当時、日本代表の監督は加茂周さんで「今回は慣れてくれればいいから。6月のキリンカップで試して使うから、その時な」って言われて、「わかりました」って。

それでその次のキリンカップにも加茂さんが言葉どおりに選んでくれたんです。ところが、直前のJリーグの試合でケガしたんですよ。ゴツイ外国籍選手から肘を脇腹に入れられてアバラが折れて、それで代表辞退になっちゃっいました。もしそこでキリンカップで試合に出られれば、その後もうちょっと違ったかもしれないと思うんですけど。

その後も1998年フランスワールドカップの最終予選で呼んでもらってはいたんですけど、切羽詰まった試合でまだ1試合も使っていない選手は使いづらかったでしょうね。もちろんああいうチームに帯同できたのはすごく良かったし、代表として結構長い間選ばれてたんですけど、キャップ数がゼロっていうのは、やっぱりそこは悔しいですね。

だから僕を紹介してもらうとき日本代表に選ばれてたって言われても、何だろう「いや、そんなんじゃないんだよな」って申し訳ない気持ちになっちゃいます。やっぱり代表で1試合でも出たかったっていうのはすごく思います。

指導者になった今は、代表チームに関わるとしたらなんかの代表チームを率いることしかないですね。だからそこを目指して頑張ります(笑)。

 

■幻に終わった同じ五戸町出身監督との同郷対決

オススメのレストラン、そうそう、それ僕考えてたんです。地元の青森の五戸町で紹介したいところがあるんですよ。

五戸町って実は馬肉が有名なんです。そこに尾形精肉店、「ミートプラザ尾形」という店があって、馬の焼肉もできるし、馬肉鍋もあるし、もちろん馬刺しもあるんです。

今、僕も筋トレしてて、脂肪とか筋肉量とか意識するじゃないですか。馬って鳥よりも高タンパク質で、脂肪がなくて、筋肉には本当にいいんです。味も美味しいですよ。

「義経鍋」っていう伝統的な鍋があって、それで焼肉をやるんですけど、鉄板がちょっと斜めになってて、脂を落としながら食べるのもまたいいんです。

実はね、2021年4月の終わりに横浜FCは仙台と三ツ沢で試合だったんです。仙台の監督が同じ五戸町出身の手倉森誠さんで、J1で同郷対決があるって1万7000人の町民挙げて楽しみにしてくれてたんです。でもその前に解任されて、申し訳なかったなって。

ただ、それくらいの町からJ1の監督が2人出たということだけですごいと思ってます。そういう町なので、ぜひ五戸町に行ってみてください。そしてそのときは、馬肉を食べてくださいね。

→「ミートプラザ尾形

 

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■下平隆宏(しもたいら・たかひろ)
1971年12月18日生まれ、青森県出身。青森県立五戸高校卒業後の1990年に日立製作所サッカー部(のちの柏レイソル)に入団。2001年にFC東京に移籍するも2003年柏に復帰し翌年引退。同クラブの強化部スタッフ、U-18の監督などを経て、2016年~2018年はトップチームの監督、2019年~2021年は横浜FCの監督を務めた。

 

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森雅史(もり・まさふみ)
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。2019年11月より有料WEBマガジン「森マガ」をスタート

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